同人ゲーム実況アニメである「ジークアクス」は「SSSSグリッドマン」を文学的に越えられるのか?

ジークアクスは「ファーストガンダム~逆シャアまでの設定を使った同人ゲームの疑似ゲーム実況動画」と考えるとわかりやすい。

放送のたびにSNSに溢れる感想は実況動画の左側に流れるコメントの代替だ。

2007年に東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』で、記号の組み合わせで造られた(アニメやゲームの)キャラクターたちが血を流して死んでいくことの痛みではなく、無限回数ループ出来るゲームの中で初回のゲームクリアを達成するプレイにおいてプレイヤーが経験する痛み(このプレイにおいて死んでいったキャラクターたちの「死」は特権化される。つまり本当に死んでしまう)を主題化したのが、2000年代のループ / パラレルワールドもののアニメやゲームの特徴であると指摘したけれども、現代ではかつて文学の経験として創られていたそうした「プレイヤーの痛み」すらゲーム実況動画と、そのマネタイズ(いかにバズらせて視聴者を集めるか)のネタにされている。

また東浩紀は2013年の『セカイからもっと近くに:現実から切り離された文学の諸問題』で、森博嗣原作の押井守によるアニメ「スカイ・クロラ」を題材に、「ループの二重焦点化」という言葉で、作中にプレイヤー視点キャラクター(本来なら作品の外にいてゲームをプレイしている人物の視点を、作中において持ってしまっているキャラクター)とプレイヤーキャラクターの両方が登場する構造も指摘している。

最近のアニメでは「SSSSグリッドマン」における新条アカネがプレイヤー視点キャラクターで、多分ジークアクスではララァがそのポジションにいるんだろう。新条アカネは終盤でゲーム内のキャラクターに過ぎなかった宝多六花と親友になり、ゲストプレイヤーでもあったグリッドマンの助けもあってゲームをクリアし、ゲーム空間を去る。

六花「アカネはさ、どこに行ったって堂々としていないと。だって私たちの神様なんだから。だから神様、最後にお願い聞いてくれませんか? 私はアカネと一緒にいたい。どうかこの願いが、ずっと叶いませんように」

アカネはこの願いを守り、劇場版で再び六花たちの世界に戻ってきたときも六花とは敢えて言葉を交わさないまま現実世界(北千住)に戻る。六花は自分がゲーム内のキャラクターであることを理解した上で、プレイヤー視点キャラクターであるアカネに、現実世界に戻っても自分たちはずっとアカネの側にいると伝えて、パスケースを渡す(そのパスケースは実写によるエンディングでもアカネの手元にある)。

またグリッドマンがゲーム空間をログオフする際に、グリッドマンのプレイヤーキャラクターだった響裕太の親友で特撮マニアの内海は、裕太に「グリッドマンの地元でも俺の活躍宣伝しといてくれよ。次に来るときは、裕太じゃなくて俺に宿れよ」と伝える。

続編のダイナゼノンでは、プレイヤー視点キャラクターの一人であるシズムが主人公キャラクターの蓬に、お前はゲーム世界から出てプレイヤーレベルになれる可能性があると誘う(「君だって見たんだろ? 怪獣の力さえあれば、時間や空間、生きることや死ぬことからも解放される。もう少しで無上の自由にたどり着けたのに、後悔は無いの?」と尋ねるが、蓬は「俺は自由を失うんじゃないよ。かけがえのない不自由を、これから手に入れていくんだ」と答えてゲーム世界に戻る。

最後に恋人同士になった蓬と夢芽(二人ともダイナゼノンのパイロットだった)は

蓬「傷、治んないや」
夢芽「ずっと消えない痕になると良いね」
蓬「なんでよ?」
夢芽「何十年経っても、きっと忘れないと思うから」

この傷とは、プレイヤー視点キャラクターのガウマの顔にあったSの形をした傷で、ラストシーンでは蓬の手の甲と夢芽の太ももに同じものが現れている。

SSSSグリッドマンもSSSSダイナゼノンも、プレイヤーとキャラクターという2000年代以降の日本のアニメやゲームやラノベで一般化したメタ物語構造の二つの視点を抑えつつ、無限回数あり得るプレイのなかでプレイヤーとキャラクターがかけがえのない関係性を持つ物語となっている。だから両作品は文学性という意味でも高度だ。

今のところ「莫大な予算で作られた公式コラボ同人ゲームのゲーム実況」に見える(にしか見えない)「機動戦士ガンダム ジークアクス」は、最終的に「何十年経っても、きっと忘れない」「ずっと消えない痕」をあと1回のエピソードで残しうるのか?

お手並み拝見だ。