異世界シャワーとファンタジーにおける社会科学的諸問題

ラノベを書こうと思って色々と調べているうちに、「異世界シャワー問題」という議論が2年ほど前に勃発していたという話を見つけた。

異世界転生ものは東アジアのウェブ小説やラノベでは圧倒的な主流ジャンルらしいのだが、その手法で書かれたラノベが早川書房から出版され、それを読んだSFの大御所(60歳過ぎ)が、何で中世風異世界の娼館にシャワーがあるんだと突っ込んだところ、20-30代のラノベファンやラノベ作家から猛反発を食らい、中世風異世界にシャワーは存在してはならないのかという議論がツイッターと匿名はてなで(笑)展開したという。

異世界シャワーに対する反批判の主な論旨は、概ね以下の3点に収束する。

・細かい考証を考えてはならないというのは、異世界もののお約束。
・問題の作品の主題に異世界シャワーは無関係。
・老害うざい。

実は自分はとうにラノベを書くことは断念しているのだが、その理由がまさにこれらの反批判に重なる。

ラノベの異世界ものを幾つか眺めてみた限りでは、ラノベ異世界がこれほどまでに造り手・書き手に愛される理由は

「どんな荒唐無稽なことでも無審査で全て許容される物語空間として、ある世代にはいちいち説明しなくても、ここは異世界ですと書けばそれで全て通じる」

これに尽きる。

もともと日本のラノベのブレイクのきっかけはファンタジーRPGのノベライズだったし、今現在膨大に書かれている異世界ものもヒットポイントとかレベルとか属性といったファンタジーRPGの概念が当たり前に使われているから、最大公約数的な和製ファンタジーRPG世界とはどういうものかを熟知している(あるいは疑問を持てるほどの知識が無い)ことは、現代の異世界ラノベの読者になるための必要条件なのだ。

だが、自分はそういうものに疎い。最後にプレイしたファンタジーRPGは幻想水滸伝IIだもん。

また、トラックに轢かれて和製最大公約数ファンタジー世界に転生したら何故かスーパーハイスペックな初期設定のキャラになっていて、可憐な美少女と肉感的な美女と絶世の美女とボーイッシュな美少女とツンデレな美少女とドジっ子な美少女が好意を寄せてくれて、強敵に追い詰められてピンチになると感情が爆発して波動砲級の破壊力の攻撃魔法が勝手に発動して敵を壊滅させるというストーリーにも全くココロ動かない。

これでラノベを書くのは、無理。テンプレを使えば書けるとは思うが、お金を先払いで貰いでもしない限りはやりたくない。

かといってトールキンやル・グインのようなハイファンタジーが書きたいかというと、そっちも無理である。失礼ながら指輪やゲドでも世界設定の矛盾が気になりすぎて没入出来ない。

ラノベ以前の国産ファンタジー、すなわちグイン・サーガやアルスラーンも、若い頃は楽しく読んでいたが、今読むとやはり社会科学的な部分の粗が気になってしまう。

異世界シャワー論争のきっかけとなった人物も、SF畑の人だ。

SFはもともとは(あるいは「本来は」)考証の面白さや緻密さが創作の出発点になるジャンルである。

それに、異世界にキャラクターが飛ばされてしまうというのは、もともとSFの基本プロットだったはずだ。

「トラックに轢かれたらファンタジーRPG世界に転生する」という、現代日本のある世代にだけ通用するお約束が出現するはるか以前から、SFの作法での異世界遷移ものというのはあった。その文化圏の人から見れば、ザル設定すぎる異世界は、それは辛いに決まっている。「トラック轢死異世界転生コンセプトは当たり前の前提」として育った世代とは違うのだ。

また、その前提を当然として反批判を展開している人の多くが、JKハルの本質は・・・という、本質主義をベースにした論の構築をしているのも気になった。

作品に本質がある、とする考え方は、美学史ではかなり古い。20世紀の半ばには文芸批評理論でも本質主義は流行遅れになっていたのではないか。

様々な場所で歴史の断絶を感じる。

追記:問題の小説「JKハル」も読んでみたが、トラックに轢かれてファンタジーRPG世界に転生という設定から入っているので、そんな世界にリアルさを求めてもしょうがないとは思った。一方で「シャワー」という語を使わなくても何の問題もなく同じ話が成り立つくらい些末な表現であり、の割には、「それ、必要か?」と思うような妙な薬草の設定に凝っていたりするので、現代世界のテクノロジーレベルか、ファンタジーRPG異世界テクノロジーか、どっちかに揃えた方が良かっただろう。ただし、トラックに轢かれてファンタジーRPG世界転生という定番プロットに山田詠美の『ベッドタイムアイズ』をくっつけたアイデアは秀逸。