久美沙織によるラノベの定義に納得した

15年前に久美沙織がラノベの本質を的確に書いていて、やはりラノベはその時代のティーン文化にアタマのてっぺんまで浸かっている人間だけが書けるものだと確信した。
 
久美沙織はラノベの源流の一つ、コバルト文庫の看板作家だった人で、うちにも1冊ある。これは1984年の作品で、表紙を描いているのは、かがみあきら。かがみあきらは名古屋出身で、母の教え子だった。
久美沙織『薔薇の冠 銀の庭』(集英社文庫、1984)
 
一説によると、漫画家が文庫本の表紙を描いたのはこの小説が日本で初めてだそうな。
 
久美沙織は自分や同世代の女性作家たち(氷室冴子、新井素子)をラノベとは明確に区別している。理由は明らかで、久美沙織のこの小説にしろ、氷室冴子や新井素子にしろ、「オタ文化・オタ知識の共有を前提とした書き方はしていない」のである。
 
だが、いわゆる異世界シャワー論争を2017年当時に遡って見ていくと、現在のラノベ読者の中には田中芳樹や上橋菜穂子までラノベに含めているような人も散見されて、ラノベ文化の強みは「俺の主観が全てを越える」思考にあるのかもしれないなと思った。言うまでもなく田中も上橋も、同時代同世代のオタ文化の高度の共有を前提とした書き方はしていない人である。
 
 ですが、……たとえば
「あんた、バカぁ?」
 と書くと、アレをみたことのあるひとは、必ずや、惣流・アスカ・ラングレーの二次元画像(その発言をした時の表情つき)と宮村優子さまの声が「同時に見えるし聞こえる」。
 
 というような「ジョウシキ」あるいは「共通の認識」をおのずと持っている同士でのみ通用する表記、あるいは、読者に「そのような認識を期待する」表記、これがいまや書籍界にもどんどん乱入している。
 わたくしめは、いまどきのいわゆる「ライトノベル」というものは、つまり、そのようなものである、と定義できるのではないかと思うのです。
 生まれたときからビデオもCDもへたすると家にパソコンもあって、それらを使いこなすことがあたりまえで、であるからしてすべてのメディアのクリエイト作品をともすると「消費」しがちな脳みそを形成してきてしまったひとたちの、ひとたちによる、ひとたちのための、作品なのではないかと。
 
 これは、おーきくでちゃうと「文章表現という表現形式における鬼っこ」状態です。
 
『新人賞の獲り方おしえます』三部作の中でわたくしめが口を酸っぱくして言った(いや書いた)のにいまだに新人賞の応募作品の多くが、どーしてもやっちまいがちなのが、このアヤマチです。
 
「誰にでもわかるように書け、あんたのおかあさんにも、カドのタバコ屋のばーちゃんにも、遠くはなれた別の県のひとにも、十年後のひとにも、読んだらちゃんとなにがかいてあるのか間違いなく理解できるように書け!」
 これがわからない、できない、そーゆー日本語が使えない、なのに、「小説」を書こうとして、実際に書いちゃって、自分ではデキがいいじゃん! と、幸福にも思ってしまうらしいひとが、あとを絶たないんすねー。
 
 歌を歌うのがすきだからって、歌手にはなれないでしょ。
 お風呂場でハナウタ歌うのが好きなのなら、歌ってればいい。
 でも、ひとに聞かせようとするなよ。
 カラオケ屋さんでナカマウチで楽しんで盛り上がるならいい。
 でも、それでプロになれると思うなよ。
 
 ……とかいってたら……あまりにも「あんた、バカぁ?」でオッケイで、というか、そのほうがスキなぐらいのひとたちのパイがでかくなり、その中だけでも充分商売がなりたつようになってしまったように見える今日この頃だったりはするんですけども。
 
出典