物語の在り処と小説家とNovelJam

NovelJam2019’の懇親会で他のチームの著者さんたちと色々話をしていて、

「書きたくてここに来たけどテーマが見つからなくて編集さんに引き出してもらった」

という声が凄く多かったのが印象的でした。

これは社会学の卒論指導でも似たところがあって、学生のテーマ決めは指導教員の最初の峠です。卒業論文の場合は、学生が気になっているキーワードや経験から、それぞれの「こだわり」「ひっかかり」を対話を通して抽出して、社会学の研究方法で未知の問題に答えを出すという形に整えていきます。

今回は小説の編集という異分野だったので、この方法は使いませんでした。使えなくもないと思うのですが、私の読みたい小説は、そういうやり方では生まれてこないと考えていたからです。

ヒントにしたのはスティーヴン・キングの『小説作法』です。彼は、物語が先、テーマは後からついてくると主張しています。あれだけ売れた人の言うことなので、(実はホラーは読まない私ですが)傾聴に値するものはあるはずです。なお、「物語とは何か」という点について彼はあまり詳しく書いていませんが、私は「誰かが何かを経験することで、何かが変わるプロセス」と考えています。5W1Hなんて不要で、WhoとWhatさえ決まっていれば物語は出来る。

『We’re Men’s Dream』ならサツキがライブを経験して変わる、『天籟日記』なら静麗姫が言葉を発して変わる、そこが小説の核。すなわち物語の在り処。だから、この場面を著者が小説の世界に没入して書ければOKと思ってました。

著者と物語のシンクロの深さを仮に物語の強度とすると、物語の強度が高ければ「テーマは著者から小説に向かって勝手に流入する」と私は考えています。何故ならば、著者は多様な人生経験を重ねてきているからです。

編集者が掘り出さなくても著者の中にある何かがテーマとして勝手に動き出すというのが、私の仮説。

実際、澤俊之さん『We’re Men’s Dream』も、森きいこさん『天籟日記』も、それぞれの中にあるテーマが勝手に物語に宿っていました。こうした「勝手に宿るテーマ」は、著者の深層から出てくるだけに、論理的に答えを出して終わりに出来るissueとは違って、多くの人々の共感を呼ぶものだと思っています。

また、こうやって生命を与えられた物語は、それが強ければ強いほど、勝手に増殖を始めます。

1冊の本では収まらなくなります。

逆に、コンセプト(トリック)を先に決めて、その枠の中にパズルのように要素を詰め込んでいくタイプの小説では、規定文字数の外に溢れ出ようとするような強い物語は生まれづらいと考えます。コンセプチュアルアートの方法論で作られた小説だからです。

現代の純文学ではそういうもののほうが評価されやすいようですが、私は現代アートは好きですけれども、文学や音楽でやる現代アートはあまり・・・・ということで、今回は断然、物語ベースでの小説作りで進めました。

だから、これはまだまだ続くんじゃないのと読者が感じたとしたら、『We’re Men’s Dream』と『天籟日記』は物語として強いということです。

物語から作り始める小説である以上、「作品として完結していない」「書ききっていない」は、私には褒め言葉に聞こえます。現代アートが好きなら都現美か森美術館へどうぞ。チームKOSMOSがNovelJam2019’で作ったのは、東京ビッグサイトや森アーツセンターギャラリー(の夏休み企画)でグッズが飛ぶようにうれるような物語の、はじまりの瞬間ですから。

物語の存在する領域は小説より遥かに広大です。詩、劇、映画、ドラマ、アニメ、ゲーム、漫画、絵画、写真、歌、神話、伝説、経典。

だからサツキも霞も、NovelJam や小説というフィールドを飛び出して、どんどん物語を溢れさせて欲しいと思っています。

澤俊之『We’re Men’s Dream』

バンド活動と社会人生活に挫折して田舎でくすぶっていた26歳のサツキが、ひょんなきっかけでライブの場に戻っていく物語。クライマックスのライブの描写は、バンドを経験している人なら絶対に泣けるでしょう。

森きいこ『天籟日記』

19世紀最後の年、日清戦争から5年後。清に隣接する小国、天籟の姫君が、プロイセンとオーストリアの間にある小国、クリークヴァルト公国へと嫁ごうとしていた。イングランド人の母と日本人の父の間に生まれた少女、霞は、偶然のめぐり合わせで姫君の一行と知り合い、不思議な事件を目撃する。人が変化する一瞬を静かに、かつ劇的に描写しています。人は、変わるときは1日で変わるものです。