おかげさまで54歳になりました

おかげさまで54歳になりました

53歳の1年間は忙しいったらありゃしなかったですが、「余白のアートフェア」という、これまで少なくとも日本には存在しなかった新しいアートの空間のコンセプトを完成させたということで、私の人生の中でもわりと大きなランドマークを残したんじゃないかなと思いますね。

2006-2007のホクレア日本航海

2011-2012の加藤ゼミ・パルテノン多摩個展

2014-2015のファザーズバッグ作り

2025の「余白のアートフェア」立ち上げ

海外ではローカルで気楽なファインアートフェアって当たり前にあるんですよ。市立美術館が地域のアーティストを公募して展覧会をやって、そこで作品を売る。売ることで認知され、売ることでファンが増え、売ることでキャリアアップするということを地域が支えている。

ところが日本だと絵描きと彫刻は明治以来の団体展カルチャーがあるから、ファインアート系の絵描きさんが地域で絵を描いて売ることで地域に認知されて、そこから活動範囲を県・州や国にステップアップしていくというキャリアを作りにくい。

素晴らしい作品をつくっている人はわんさかいるのに、国際標準のキャリアラダーが団体展カルチャーや公立美術館の社会教育施設縛り(作品を売ってはいけない)でブロックされている。

また団体展系画壇と現代アート系画壇が各自でサイロ化して横串が刺さっていないという問題もある。

一方で日本にはコミケというフラットな制作・販売の場づくりの世界的頂点があり、ファイン系のカルチャーでも文学フリマがついにビッグサイトで開催出来るまでになった。

だったらコミケやメーカーフェア的な空間に画壇系、インディ系、現代アート系別け隔てなく呼び込んでフラットな交流と販売の場を作ってみよう。これが「余白のアートフェア」のマーケティング的な出発点でした。これに、言わばブランドエンドースメントみたいな形で力を貸してくれたのが愛☆まどんなさんであり、山崎晴太郎さんでした。

それは確かに機能したと思います。次はいつですか、次こそ出たいですっていっぱい言われてるからね。

ここからどうするか。

今考えているのは、次は地元・稲城に同じコンセプトの何かを作ること。名前はこだわってないです。「余白のアートフェア」は福島の広野町「だけ」のものにしたいという人が多いのなら、そこに差し上げちゃって良いよねと晴太郎さんとは話しています。

稲城では裸一貫からの出発? いえいえいえ。

余白2を終えてみてわかったんですよ。

自分にはこんなにも沢山のサポーターがいるんだって。そこに加藤がいたから余白1&2に協力しましたと。ノウハウも全部私が持っている。アーティストさんたちとの繋がりもある。そして稲城では20年前の南山紛争時代から培ったネットワークも既にある。市役所にも観光協会にも地域にも。やれないわけがない。

次は愛する息子の故郷、稲城で。

引き続きよろしくお願いいたします。

画像は余白2の間ずっと胸に付けていた「アンダーテイカー」のパッチ。首を落とされても最後まで仲間とともに進むスピアヘッド戦隊長シンエイ・ノウゼンのパーソナルマークです。

「海を見たいとは、おれは思わない。でも、海を見せたいとは思う。知らないものを、見たことのないものを、見せられたらいいと。おれが戦う理由は、今はまだ、それでいいと思う」(安里アサト『86-エイティシックス- EP3』電撃文庫2017年、332-333ページ)

余白2の会場で「それ! エイティシックスですよね!!」と声をかけられたときにはちょっと嬉しかった。