会期初日に公開されたこれ
第1段落が文書の趣旨説明、第2段落が企画展のコンセプト解説、第3段落が企画展の構成解説、第4段落で田中武の作品を選んだ理由と、同作品が参照している先行作品群の紹介。第5段落が例の「現代人の欲望」が作品コンセプトの中でどう落とし込まれているかの説明。
「作者はまた、自己の経験に基づいて、現代人のもつ多様な欲望を、生の原動力という重要な一面 があるものと肯定的にとらえ、それを自らの家族や友人などをモデルにした群像で表しています。」
これは別のテクストで田中武が書いていた「煩悩と菩提は分け隔てられるものではない」を更に詳しく説明したことになるのかな。
あとはそのコンセプトの表現がどの程度成功しているかを、現物を見て判断するしかないでしょう。
日本画そのものが男尊女卑。それは確かだけどさ。
あるいは田中武の日本のアート世界での立ち位置(大和民族の、多分障害者ではない高学歴男性で、同じ属性の高所得層男性から評価されている)そのものが偏っていて、田中武の存在そのものが偏見の塊、日本アート界の主流派男性支配の具現化なんだという論法での批判も可能ではあるけれど。
そこまで大きな問題を一人の中堅日本画家に載っけて、その画家の存在や作品を否定することには、前向きな意義は無いと思います。
文化大革命や新左翼だよねもうそこまで行くと。
あとは下放するか、山小屋に拉致して「総括」させるか。
だいたい日本画どころかフェミニズムアート以外のほぼ全てのアートが(残念ながら)男尊女卑を内包しているだろう。日本全国、あるいは欧米の全ての美術館は男尊女卑のゴミ山の中から咲いた花ですよ。
25年前のポスコロ院生が愛用した構文のように、分野が男尊女卑だからそこで出世したやつは全員が歩くミソジニーだという論法も使うのは自由だが、「じゃあどうしろと?」としかならないのでは。
西洋のファインアートも日本画も、更に言えばたいがいのアプライドアート(工芸、ポピュラー音楽、映画、ゲームなどなど)も男尊女卑がベタ基礎のコンクリの砂レベルで分野の土台になっている。その中に入っていってBFAやMFAを取って仕事をしている君たちは何なんだ? 男尊女卑によって作られた権威や制度に後のり便乗して生きているの恥ずかしくないのか?
むしろ男尊女卑の塊の東京藝術大学なんか行かずに、既存の男尊女卑ジャンルをオールキャンセルした上で、全く新しい創作分野を自力で立ち上げた方が良いのでは?
ということだって言えちゃうだろう。ポスコロ論法を使えばね。どっちもアホくさいから廃れたんだけど。
学芸員の考えたもんをまずは口出しせずに見る。批判はそれから。
アンチ田中武の方々にとってのエクステンデッドゴールは道近美の学芸員に「十六恥漢図はミソジニーアートでした」と言わせて、その上で、そのような扱いで展示させるところだったのかな?
冒頭のツイートの引用や返信では、自分が満足する回答が出てくるまで部下を鬼詰めするパワハラ上司のような文言が並ぶ。
しかし、まずは作者による解説を基本情報として提示するのがキュレーターの仕事ではないだろうか。
企画展担当の学芸員たちが田中武作品をミソジニーとして解釈する立場を取っていないのであれば、そうした立場を貫いて展示を行うべきであろうし。(作家自身が「十六恥漢図」を「ミソジニーを表現しました」と公言していれば別)。
サービス開発やプロダクト開発でも、権力はあるけど権限も責任も無い連中の口出しが混入すると、コンセプトがブレたダメなものが出来上がる。
だから、どこの誰かもわからんような匿名アカウントやら、羅漢図や日本画について専門的に研究しているわけでもない西洋美術専門の人々の思いつきや主張を安易に企画展の最終段階で入れるのは下の下。
まずは構想通りのものを提示してもらい、それをじっくり見てから、批判すべきと思えば論文を書いて批判したら良い。 君たち一応は大学院でMAやらMFAやらもらってるんでしょ、だったら議論も批判も然るべき手順ってものがあるのはわかるよね、と思うのだった。
もしも匿名大衆を率いた活動家の抗議活動で美術館や博物館の展示解説がひっくり返るような世の中になったら、同じことがありとあらゆる表現活動に向けて展開される。瀧波ユカリの漫画はミサンドリーの塊だと言う人たちが出版社に押しかけて「こいつの本の表紙にはミサンドリー漫画だという但し書きを入れろ」と騒ぎ、書店に押しかけて「北村紗衣の本にはミサンドリー本という手書きポップを添えろ」と騒いだら、それはOKなのか?
なわけなかろう。
昔、PMRCというしょうもない運動があってだなあ
こういうのはやればやるほどカウンターもきつくなるもんだよ。
ほどほどで手を引くのが大事。
常識で考えろ。
- もう死んでしまった作家による作品で、0) 作家本人の手記や書簡、同時代人の日記などの一次史料の入念な分析により、1) その作家が明確に女性差別思想を持っていて、しかも 2) それを作品に表現した という説が研究者たちの慎重な議論の末に定説として確立されているならば、キュレーターがそれを説明する文章を展示会に挿入することも出来る。
- しかし存命作家の作品について、作家本人がそのような意図を否定しているにもかかわらず、キュレーターが「この作家はミソジニーをこの作品で表現したと考えられます」などと展示会やカタログのキャプションに書いたならば、名誉毀損で訴訟になりうる。
- また当該作品は他館から借り出しているものであり、他館のコレクションの中核作品でもある。SNSの匿名コメントが殺到したからといって、当該作品を「ミソジニー作品」と書くなど、道義的にもあり得ない。
- 当該作品は12年前にそれなりの重みのある賞を取っており、また同シリーズは作家の代表作としてあちこちで展示されている。仮に特定の人物がモデルを務めていたとしても、その人物は完成作品を目にしていると考えるのが自然であり、これまで特に論争が無かったのであれば、モデルと画家の間で当該作品の表現について争いは無かったと考える方が自然である。
- 匿名、筆名、実名にかかわらず、確たる証拠も無いのに画家の田中武さんや道立近代美術館の学芸員たちが女性差別思想の持ち主であると主張している人々は、木村花さんの事件を思い出して、速やかにそうした書き込みを削除されることを強くおすすめしたい。拘置所に収監され、あるいは裁判所の被告人席に立つ覚悟が無いのであれば。
どの例にも言えることだが、攻撃する有象無象の声の主は、自らが加害者になることなど微塵も意識していない。自分自身の言葉が社会に影響を与えることなど想像もしていないからだ。実際、多くの攻撃者は社会的強者ではないことのほうが多いだろう。
言い換えれば、自己評価が低いからこそ、平気で他者に対して強い言葉で罵詈雑言を浴びせることができる。自己評価が低い人間は、自分の声を相手が真剣にとらえることなどないと思っているからだ。
しかし、受け取る側にとっての重みは必ずしも軽くはない。花さんは見ず知らずの人たちから、SNSを通じて毎日100件もの非難の声を受け取っていたとつづっている。発信者にとっては、さして大きな意味はないのかもしれない。単なるストレスの捌け口だった場合も少なくないだろう。しかし軽い気持ちで発した、毒性が0.1%の言葉であったとしても、100人が同じ毒を浴びせれば10%になる。
以下、業界の反応。
いずれ誰かが田中武について論文を書くこともあるでしょうから、同業者の感想を収集しておきます。
あと、あくまでも私個人の感想ですが、道立近代美術館は公立館なので直接SNSで殴り返しては来ないだろうという予測は概ね当たりでしょうけれども、アート業界のどこで誰が何を言っていたのかを、今回一方的に殴られた側の館(道近美、豊橋市立美術博物館、北九州市立美術館、茨城県近代美術館)が把握していないと考えるのは甘いと思います。世間知らずというか。
それから画家の所属ギャラリーや「十六恥漢図」を持ってるコレクターたちも、反応はしなくても、誰がどうやってdisったのか把握はしていると思っておいた方が良さそう。逆の立場に立たされた時に自分がどう行動するかくらいは考えてみよう。
愛知県美術館主任学芸員の副田一穂さん。
表現の不自由展その後(あいちトリエンナーレ)の会場だったとこですね。
若手キュレーターの伊藤結希氏。
東京藝術大学卒ですが学位はまだBFA(学士)までですね。
美術ライターの浦島もよ氏。
底意地が悪いというのは自己紹介ですよね?
Yukie KATO氏。
プロフィールによると学芸員さんで、道近美の学芸員とも知り合いだそうです。釧路市立博物館の加藤ゆき恵さんかな? であれば専門は植物(植生・研究史)とのこと。タイムラインを見てもそういう投稿が多いですね。
ミソジニー絵画だ、いやそうじゃない、なんてのは水掛け論にしかならないから付き合ってもしょうがないと思いますけども。作者が「女の人をバカにするために描こうと思うんですガハハハハ」と語っている録音とかメールが動かぬ証拠として出てこない限りは。
アーティストの中塚文菜さん。桜美林大学の助手。
齋木優城さん、山本れいらさん、会田誠大先生はまだ無反応。