「アート無罪」というバズワードを巡る考察

最近生まれたインターネットスラングの一つに「アート無罪」というのがあります。

千葉大の大学院生であった笹本なつる氏がブラックボックス展事件を批判した論考で使ったのが、広まるきっかけだったでしょうか。

しかし、事実であれば卑劣な犯罪行為があり、主催者側も謝罪したにもかかわらず、Twitter上の反応の中には「観客が怪我をしようがレイプされようが殺されようが、それは芸術性を貶めはしない」などというものもあった。
私は、これらの発言を見て、「アート無罪」という言葉を思い出した。「アートのためなら、何をやってもいい」と考える一部のアーティストらが使用する。そのことへの批判を込めた言葉としても使われているようだ。

こちらの引用にあるように、「アートのためなら、何をやってもいい」という思想の持ち主が仮にどこかにいるとすれば、その思想はなかなか危険です。

しかしながら、実際にはこのバズワードはそのような危険思想の持ち主がアートを制作している状況について用いられているのではなく、「ブラックボックス展」事件やトーキョーデザイナーズウィークでの痛ましい死亡事故など、安全管理を軽視した愚劣なつくり手(これらの事例は作家と呼ぶに値するかどうか悩みます)が、結果としてやらかした違法行為を指して用いられている気もします。
もちろん、こうしたものはあってはならないし、万が一このような考え無しの愚か者がアートを標榜してなにごとかをやらかして危険な事故や事件が発生したのであれば、司法は厳しく取り締まるべきです。論外。
こういう愚か者とは別に、これをやったら法律に触れるかもしれないということを分かっていて、それでも作る、発表するという作家も居ます。古くは赤瀬川原平、荒木経惟、最近ではろくでなし子。真面目にアート表現の幅を広げようとした人もいれば、悪ノリでやってたんじゃないかと思しき人もいますが、場合によっては環境や人権状況劣悪で悪名高い拘置所に何ヶ月も入れられたりする。日本の警察・検察は全然アートに甘くないですから。欧米なら全然問題無い写真でもレスリー・キーは逮捕されましたしね。少なくとも刑法に触れる可能性があるような表現を日本でやるなら、檻の中に入る覚悟は必要です。

荒木経惟つってもこっちは全然アウトですけどね

アート無罪なんて話はそこにはありません。
また、法律には触れないまでも社会に動揺をもたらすようなアートもあります。国内作家で言えばなんと言ってもChim Pom。広島市上空に飛行機雲で「ピカッ」と書いてみたり、渋谷駅の岡本太郎壁画をゲリラマッシュアップしてみたり。炎上することしかしないような人たちですが、毎回きっちり炎上していっぱい批判されてます。岡本太郎のやつは岡本太郎財団からも、おまえらなかなかのもんじゃねえかって認められてます

「先鋭的なパフォーマンスとは裏腹に、とてもまじめで『純粋なヤツらだな』と思いました。ぼくは彼らのやったことを褒めようとは思わないけれど、認めている。岡本太郎をリスペクトしたうえで、真剣にぶつかっているからです」

そして、映像祭への出展を“平野氏から”依頼したという。

「太郎とぶつかることで新しい自分を見つけようとする、若い作家の“格闘”を見てほしかった。ジャンルが異なる5組のアーティストはそれぞれのやり方で太郎と真正面で対峙している。チンポムの作品もそのひとつであって、けっしておかしなものでないことは、見比べてもらえばわかるはずです」(平野氏)

アメリカのアンドレス・セラーノなんて人はキリスト像を小便の中に沈めたところを写真に撮って高く評価されつつ、賞金没収されたり展示中の作品を破壊されたりしています。中国のアイ・ウェイウェイは中国政府を批判する作品を作って自宅軟禁されたりパスポート取り上げられて出国出来なくなったり、最近はいきなり政府がアトリエにパワーショベルで突入してきてアトリエを解体されたり。なかなか大変です。
別稿で論じたように、現代アートはどうしても構造的にお騒がせ案件にならざるを得ない側面があるのですが、そこで発生した波紋は全部引き受けるところまでが、現代アート作家のお仕事です。その場限りの匿名やり逃げは通常、現代アートとは認められません。匿名のゲリラ制作を芸風とするバンクシーはその点では特異ですが、少なくともバンクシーという作家名は固定されていますし、バンクシーについての論考は大量にあるし、そもそも作品の質が異様に高いので、例えばバンクシーにゲリラアートを仕掛けられた大英博物館は、そのゲリラアート作品を正式にコレクションに加えてしまいました
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バンクシーのゲリラアート(写真:Markus Ortner)

 ことほど左様に、現代アート作家だって法を犯せば手加減無く御用になります。現代アート作家は自作についての批判から逃げません(批判と向き合うことで作家としてのステージが上がるわけだし)。ヤノベケンジだって福島市民と対話の機会を持ちたいと表明してる。
アート無罪なんて話はそこにはありません(大事なことなんで2回目)。単に知識も無ければ知らないことを調べて理解する気も(あるいは能力が)無い人たちが、自分に理解出来ないものの価値を否定して一方的勝利宣言をするために使っているだけではないかと私は思っています。
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 私には匿名で好き放題に他人の悪口を書くだけ、都合の悪い反批判は無視してエコーチェンバーの中で楽しくダンスする大衆の方がよほど無責任で法を軽視しているように思えます。匿名無罪? 炎上無罪?
 軽率過ぎる現代アートモドキで死亡事故や強制わいせつ事件を引き起こしたにもかかわらず匿名のまま逃げてしまった日本工業大学の学生や「なかのひとよ」には、むしろ「匿名無罪」の概念が相応しいと思うのですがいかがでしょうか?