結局のところ人社系の大学の学部教育ですべきこととは、ホンモノの感触を教えることではないだろうか

結局のところ人社系の大学の学部教育ですべきこととは

来週からいよいよ授業開始なわけですが、ともかく今年度は現代文化学科での兼任講師の総決算の年度と位置づけていて、個人的には今年度限りで退く覚悟でやろうと思っています。あ、もちろん来年度に卒論を書く学生の世話はしますけどね。

それで、結局最終的に自分はこの子たちに何を教えたら良いのかということを、ずっと考えております。学問を教えることで何を教えるのか。「就活を突破するための力」というのは却下です。就職はスタートであってゴールじゃないんでね。

本田由紀が言っているような実務教育というのも気にくわない。実戦を戦える能力は結局のところ、戦場でしか身に付きませんもの。それに、大学を出た直後に入った業界が一生の仕事になると限ったわけでもない。

これについては本当に長い間、色々と考えてみました。

そして思い至ったのが、歴史時代以前のリモート・オセアニアの航法師たちの姿です。彼ら/彼女らの役割は、航海カヌーを導いて目指す島に仲間を安全に渡らせることでした。しかも古代の航法師は現代の航法師と違い、まだ存在の知られていない未知の土地を探し、新しい航路を拓くという活動も行っていました。既に知られている島を目指すことと、まだ知られていない島を目指すこと。そのどちらもが彼ら/彼女らの使命であった。

リモート・オセアニアの航法理論

さて、現在知られているリモート・オセアニアの航法理論を大まかに分けると、目的地の近くまで比較的おおざっぱなルートで移動するフェイズと、最終的に目的地に航海カヌーを寄せるフェイズの二つに分けられます。

天体の動きや外洋波の体感は前者で、expanded landfallと呼ばれる生物相や雲の動きを利用した航法が後者になるでしょう。かのマウ・ピアイルグ翁が若かりし頃、ぶっつけ本番でハワイ諸島からタヒチまでホクレアを導いたように、目的地の座標さえわかっていれば、トップレベルの航法師は3000キロくらいの距離は平気で航法出来てしまう。

問題は、未知の土地を目指す時です。

どこに何があるのかもわからないとすると、そもそもどちらに向かって船を進めれば良いのかを決めることが出来ません。運良くどこかでexpanded landfallのフェイズに入れればラッキーですけれども、そうならなかったらどうするのか? いつ船を引き返させるのか? そもそも何を目指して仲間を集め、船を出すのか? 

目指すものは心の中に見えている、でもどちらの方向に行けばたどり着けるのかはわからない。それでも船を出さなければ未来を創ることが出来ない。その時どうするのか?

それですよ。その時、勇気と万全の準備を持って、仲間とともに船出出来る人間を育てなければならない。今年度私がコーディネイターをしている二つのインターンシッププログラム(TNTエクスプレスと三菱商事ロジスティクス)のパートナー企業の担当者の方々が学生たちに何を求めているかといえば、それ。幅広い視野と興味関心、そして何か一つ、深く掘り下げた経験を持て。そして強力なコミュニケーション能力と、自分の力への自信を身に付けろ。

世界を観察してその核の感触を記憶する

つまり、この世界を精密かつ多角的に観察し、そうした経験の中で世界の核心の一旦に触れた手応えを記憶しておきなさいと。これは自分と世界の関係性をいかに打ち立てるかという話です。説明しづらいのだけれど、何か一つの分野を徹底的に掘り下げていくと、世界の核みたいな部分にダイレクトに届く一瞬がある。その一瞬の感触は、不思議なことに、別の分野で同じ経験をした人が語る感触と、怖いくらいに似ている。圧倒的に充実した空虚というのでしょうか。ガツンと芯のある手応えなのに、どこまで力を加え続けても芯の芯には届かない。果てしなく奥がある。

この手応えを憶えておくと役に立ちます。「こりゃだめだ」という案件や人物がてきめんにわかるようになるので。だから、若者たちにまず身に付けていただきたいのがこれ。タテにもヨコにも広い経験の中から、本物を見分ける力を身に付けろ。

その上で、自分には本物を見分ける力があるんだという信念を持つ。自分の感覚を信じる力を持つ。こっちに行ったらヤバいという感覚ね。贋物、パチものがにっこり微笑んでいる方向には絶対に行ってはいけない。それを避けて進む。

いくら安全な道に見えても、露骨な贋物が見え隠れしている方向には必ず地面のどこかに穴ぼこが空いている。そうやって進んでいけば、いつかexpanded landfallで「ここだ!」「あっちだ!」というヒラメキが来るでしょうよ。そしたら迷わず、しかし慎重にそちらに向かえば良いのです。

かくして結論はこうなります。

「世界の核心に触れる経験を。それが無理ならば、せめてその為の道筋を与えよう。」

本物を作ることに挑戦することの意味

簡単に書いてますけど、決して簡単なことではありません。世の中には、こうすれば全て解決する、あとはあなたが選ぶだけ、みたいなコスメティックを施した 商品や選択肢が無数にあって手招きしていますからね(本屋の一番目立つ場所で平積みになっている自己啓発書の大半がそれでしょう)。

そういうものからの誘惑を振り払い、何だかハードに見える途を選ぶのって、結構な精神面の強さが要るものです。自分を信じきる強さが求められる。その強さは井の中の蛙の根拠の無い自信であってはならず、数多くの本物と贋物に接し、自分でも本物を創り出してみようと悪戦苦闘し(例えば卒論とかね)、長い時間をかけて自分の感覚を磨き上げ鍛え上げた結果としての自信でなければならない。

とにかく多くのものに出会わせ、何が本物なのかを考えさせ、本物を創り出すこと、自分自身が本物であることの困難さを体験させる。教える方もめんどくさいけど、それをやる以外に無いのかなと思っています。