Where is Care?

知人の大学の先生(文学部で教授で博士号持っている)が西美の現代アート展を見に行って、最初の方は興味深かったけど中に座れるとこすら無く、(加藤の言うように)大学の文化祭の学生のポスター展示を延々見せられる感じでちょっと体調が悪くなったと苦笑していた。

たしかに現代アートは(特にゲルマン系は)アカデミックでコンセプチュアルな要素も強いけれども、その要素ばかり積み上げたらただの学会ポスター発表ゾーンと変わらない。

一つの会場内でも見る人の(脳を含めた)身体のことを充分に考えた緩急や配慮が必要であろう。

同じ理由で藝大や東大でこれはイイネと持て囃されているものをそのまま地方に投下するのも滑るだけだ。マーケティングの世界にはローカライズという概念がある。これはクオリティを落とせみたいな話ではない。そもそもアカデミック系現代アートが現代アートの最高峰というものでもない。

カスタマーサクセス、この場合はホスト地域の地域課題の解決が当然トップになるわけだが、そこにどれだけ深くコミットするか。プロジェクトが終わって3年5年10年経っても御縁が繋がり育っているような関わり方をするか。そこから逆算して行うキュレーションであるべきで、ド直球で言わせてもらうと現代アートの世界の勉強しかしていない人には無理だ。

フェミニズム系のアカデミシャンの最近のお気に入りのキーワードは「ケア」だそうだが、まず来場者の身体へのケアがどんだけだったのかという論点を例によって礼儀正しく見て見ぬふりで西洋美術館の現代アート大会を持ち上げてみせる忖度言説ばかり流通させるのであれば、東京の現代アートは山手線の外ではこれからも滑り続けるだろう。