適度に意味不明な商品と日本の批評界隈

自分でも意味内容が確定出来ていないけど、いかにも意味ありげに見える・響く言葉を考案して、それを使って意味ありげ(だけれども実は大した話はしていない)な論考を公開していって、バズの気配が出た案件を仲間内でせえので一斉に神輿に担ぐ。

というのは批評・思想・哲学界隈の新商品開発の定番モデルである。少なくとも現代日本の。

しかし元々、精度の高い定義が存在していないので界隈での議論は迷走や循環を繰り返して、いつの間にか退潮していく(その頃には次のバズワードが開発されている)。

局所最適化されたビジネスモデルなので、界隈の外からはほぼキャッシュフローが発生しない。(何の話してるのかわからないから)

日本の大学から哲学・思想・批評系のアカデミックポストが消えていった原因の一つは、この「意味ありげなだけのバズワードをみんなで神輿に担いでは捨てる」界隈エコシステムなのではないかと以前から推測している。

このビジネスモデルにはもう一つの問題点がある。適度に意味不明で仲間内でのパス回しによる界隈キャッシュフロー増加に寄与出来る論客の方が、界隈の外の一般読者に一発で理解させられるものを書く論客よりも、界隈内では愛されるという構造だ。

別の言い方をすると思想・批評・評論コンテンツをSPAでエンドユーザーまで届けてしまう書き手より、中間に別の書き手が何人も代理店として挟まってマージンを抜けるような「適度に意味不明」な書き手の方が、界隈にとっては重宝な存在である、ということになる。

しかしこれはエンドユーザー視点に立ったビジネスモデルではないから、業界・界隈全体が縮小していくリスクが高い。

蓮實重彦が売れていたような右肩上がりで人口も所得も増えていく社会ではないのだ。

ビジネスモデルの再構築も必要なのではないか。批評界隈。