Tiktokの小説紹介は書評なのか書評ではないのか。そして現代のシェア文化に敗北したオールドスクールなチンピラ文化。

書評を生業とする豊崎由美という人が、Tiktokのショート動画による小説紹介で多くの小説の重版を実現させた「けんご」氏を念頭に置いたと思しき発言をツイートして炎上した件。

炎上は最終的に豊崎由美氏が(紆余曲折あったとはいえ形の上では真面目に)謝罪して一件落着となった。

ただ、その議論の中でけんご氏の動画は書評ではない、という意見が(彼に好意的批判的を問わず)散見された。

私はけんご氏についてはよく知らないのだが、実際に動画を見てみると、色々と見えてくるものがあった。

例えば彼がおそらく2件目に投稿した動画では、344文字をしゃべっている(漢字変換は彼の動画の字幕に準ずる)。

本当に泣けます。

あの花が咲く丘で君とまた出会えたら。

反抗期で捻くれ者の中学2年生、「加納百合」は、母親と喧嘩をして家を飛び出し、目を覚ますとそこは1945年の夏

戦時中の日本でした。

戸惑いの中、炎天下にやられ、「もうこれまでか」と思ったその時!!

偶然通りかかった「佐久間彰」に助けられます。

それから彼と過ごす日々の中、百合は誠実で優しい彰に恋心を抱きました。

しかし、彰は特攻隊員で 愛する人のため、日本のために

命をかけて敵地へ飛び立つ運命だったのです。

この作品、現代がどれだけ恵まれているか

戦争がどれだけ残酷なものなのか

命がどれだけ尊いものなのか

色々なことを考えさせてくれます。

特に最後!! 百合が彰の本当の思いを知るシーンは

涙なしでは読めません!!

どの年代の方にも是非読んでいただきたい作品です!!

出典:https://www.tiktok.com/@kengo_book/video/6897894650762366210 (2021/12/14閲覧)

@kengo_book

号泣注意です。大袈裟ではありません。#あの花が咲く丘で君とまた出会えたら #本紹介 #読書

♬ 命が泣いていたんだ – THE BINARY

冒頭にキャッチコピー。次に書名。あらすじ、感想、ハイライトシーンの紹介、最後にもう一度推薦の言葉。 きちんと構成された書評に思える。彼を攻撃した豊崎由美の書評と比べても、こちらに好感を持つ。なによりも品があるからだ。(豊崎という人は私よりちょうど10歳年長で、バブル時代にライターとして活動を開始ししたという。バブル時代から2000年代までは雑誌メディアが最も売れていた時期で、オラオラ系の人も多かったし、彼女自身もガラが悪いことをウリにして活動してきたという。だが、そういう芸風は現代の若年層には好まれない。この文化的な齟齬も炎上の遠因としてあったのかもしれない。)

また、動画というメディアを使うことと、けんご氏が(おそらく)心底惚れ込んだ本について語っていることとで、この動画は書き起こしの字面を遥かに越えた訴求力を持っている。編集も現代のトレンドをきちんと踏まえており、中高年が想像するより遥かに多くの手間暇と技術が投入されたコンテンツだ。

「何故、1年強でけんご氏がここまで大きな発信力を持つに至ったのか」。

自分が賢いと自惚れている中高年の読書人たちは、ここをもっと真剣に考える必要がある。

単なるラッキーヒットからの雪だるまではないという前提でけんご氏の動画を見れば、学べるものは多いだろう。

これに関連して、私が9-11月まで入院していた病院の25歳の理学療法士に聞いた話がある。休日はtiktokを流しっぱなしでのんびり過ごす。youtubeと違って乗り換え待ちのようなほんの短い空き時間でも楽しめるのがtiktok。テレビドラマも映画もほとんど見ない。そんな若者が一定数いるというのは良い悪いではなく単なる事実だ。

そこを目掛けて試行錯誤でコンテンツを開発して投入し、現状では直接の収益化は出来ないにも関わらず1年間で膨大なtiktokブックレビューをアップし続けたけんご氏は、クリエイターとして偉大であるのみならず、コミュニティへの贈与者としても偉大だ。

彼は本質的に贈与経済の中で活動していた。彼の生み出した売上と利益は出版業界への無償の贈与だった。シェアの文化である。出版業界がするべきは「良い本を作って出版する」という贈与の返礼だけだった。それが贈与の連環だ。贈与品はコミュニティの中を循環することでコミュニティを豊かにしていく。一人の愚かな老人が贈与者に石を投げ、贈与者は立ち去った。

もしかしたら、これも豊崎由美にとっては予想外だったのかもしれない。

彼女が生きてきた長老制ムラ社会の国内出版文化の中では、ムラの長老に挨拶に来ない新参者や若輩者は喧嘩を吹っかけられて当然だからだ。この喧嘩を経てまだ食らいつくガッツのある奴だけがムラの仲間入りを許される。2000年代以前の日本の出版文化にはそういう側面があると思う。その時代に育った中高年の知識人たちが飽きもせずに徒党を組んでの印地を繰り返しているのは、他の形でのコミュニケーションが苦手だから(あるいは、思いつかないから)なのだ。

いわばチンピラの文化である。

しかしこれは今回、その外でいつの間にか主流になっていたシェア文化に完膚なきまでに敗北した。

さて、最後に書評の批評性についても考えておきたい。

本について語るという行為には幾つもの様式がある。書籍紹介、感想、書評、批評、論文が代表的な形式だろう。

私の考えるところでは、紹介は情報提供、感想は何かに接した結果として生じる思考や感情やその表出、書評は誰かに受け取られることを想定した本の紹介+感想の編集物、文学批評は文芸を何らかの方法論によって論理的に考察し、新しい読解の可能性を示すもの、文学研究は事実と論理に基づいて文学についての新しい知見を生み出すものである。

考え方は人それぞれだろうが、上記のような立場に立った場合、書籍情報の紹介とレビュアーの感想を高い技術で編集してショート動画にしたけんご氏のコンテンツは「書評」に該当するだろう。批評性は高くないかもしれないが、批評性を重視するならば文学批評が本丸であり、書評家がそれを振りかざすのはお門違いだ。

ちなみに私は修士課程ではアメリカ文学研究の三井徹先生の研究室、博士課程では立教大学大学院文学研究科の比較文明学専攻というところにおり、後者は学部では「文芸思想専修コース」に対応している。気鋭の文学研究者を何人も揃えた専攻である。だが、豊崎由美という名前はつい2年前に『図書館の魔女』の推薦文で初めて見た。大学院で豊崎由美という名前を口にする人には一人も会わなかった(中島梓は三井先生が講義中に言及されたことがある)。批評性という観点では、そういう扱いの方である。

カレー味のカップうどんが、若者相手にヒットした新しいカップ麺を「お前はカレー風味がない。お前にカレー風味が出せるのか」と言っているようなものだ。だが、消費者はカレーが食いたければ本物のカレーを食いに行くだろう。