山之口洋『オルガニスト』書評。SFです。

山之口洋『オルガニスト』読了。第10回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

導入部分ものすごく文章上手くて凄いなあと思うんだけど、ドイツ人の大学教員が同僚に送信したメールの書き方が内資大企業の拝承感に溢れていて、ちょっと笑いました。山之口は拝承じゃなくて松下出身ですが。なお山之口は東大工学部卒のプログラマー(今も現役)です。

小説の舞台はニュルンベルク音楽大学(実在の名門音大)。巷間言われているように西洋古典音楽とパイプオルガンのちょっとマニアックな知識が飛び交う小説です。気になったのは同大の教員二人が「音楽は感情の表現」と断言しあっている会話のシーン。

西洋の音楽美学的にはこれは変なのです。

ドイツ系の音楽美学ではエドゥアルト・ハンスリックの有名な『音楽美論』という本があって、乱暴にまとめると「感情表現の音楽はダサい」ということを言っている。いくら実技系教員でもドイツの名門音大の教員がハンスリックを読んでいないということは、あるんでしょうか?

まあ、クラシック音楽マニアでもわざわざハンスリックなんか読んでいる人は少ないでしょうし(一応、岩波文庫で出てますが)、気にしなければ良いのかもしれませんが、小説のプロットの根幹に関わる部分なので・・・

(推測するに)著者はJSバッハとオルガン音楽のマニアではあっても音楽学・音楽美学はほとんど参照せずに書いているので、被害者は古楽研究者なのに思考がロマン主義バリバリのキャラというような齟齬もあります。

2005年という設定ならコンピュータ制御の装具を使ってオルガンを弾いても音楽美学的にはむしろ注目・擁護されるのではと思いますし、オルガニスト・ヨーゼフがコンサートオルガニストになりたいのか聖堂付きオルガニストになりたいのかも整理されないままでした。

終盤の種明かしパートもかなり駆け足かつ強引。なおかつセンス・オブ・ワンダーは完全に工学的なギミックで終始しています(脊椎損傷の鍵盤奏者の神経部分をサイボーグ化して現役復帰させる話)。これはファンタジー小説ではなくSF小説ですよ。

さて、若桜木虔は本作をマニアックな知識で審査員をねじ伏せての受賞と分析していましたが、そのマニア的知識はいわゆるクラオタ(クラシックオタク)的な知識であって、音楽学・音楽美学の知識ではなかった。ですが、そこもまた公募を戦う上では見逃せない部分かと思います。

たぶん、審査員も一般読者も音楽美学の難解な議論なんか興味無くて、それよりはテレビのバラエティ番組的なマニアの知識を読みたがるでしょう。

とはいえ、俺はバッハとオルガンでSF小説を書くんだという情熱、狂気の値は相当に高かったので、日本ファンタジーノベル大賞は納得いくところです。

最近の多読でわかったのですが、馬鹿売れする本、大きな賞を取った小説でも神が書き下ろしたかのような完全無欠の作品というのは皆無で、欠点や短所はあちこちに見つかる。しかし誰かに刺さる部分があったので、そういう賞をもらうに至ったわけです。

『オルガニスト』も欠点は幾つもありますが、とにかくJSバッハとパイプオルガンのマニアのありったけを炸裂させた情念ボムを楽しむものと考えれば、充分に面白い。一読の価値はあります。