ファンタジー小説におけるフェミニズムの系譜についての覚書

修士課程にいた頃に読んだ小谷真理『ファンタジーの冒険』(ちくま新書、1998)を久しぶりに読み返してみた。

小谷によると現代に通じるファンタジー(近代以前の妖精譚や怪談ではなく、小説家の書いた作品としてのファンタジー)の萌芽は19世紀なかばのイギリス。オクスフォード運動やラファエル前派、アーツ&クラフツ運動といった思想運動の中から出てきたジョージ・マクドナルドやウィリアム・モリスの作品であるという。

20世紀に入るとアイルランドの文芸復興運動の中からロード・ダンセイニなども登場する。 いずれも当時のイギリスの主流であったプロテスタントへの対抗思想としてキリスト教の神秘主義やキリスト教以前の土着の信仰への注目が始まり、それらの中から新しい文芸の一形態として生まれてきたのが初期の近代ファンタジーと言って良いように思われる。 その次がアメリカにおけるラブクラフト(クトゥルフ神話)とロバート・ハワード(コナン)の登場。つまりダーク・ファンタジーとヒロイック・ファンタジーの出現である。

ところで、自分も知らなかったのだが、世代としてはラブクラフトやハワードの方がトールキン(ホビット、指輪)とルイス(ナルニア)に先行しているのだ。 初期の有名作を並べてみると

  1. ルイス・キャロル『不自然の国のアリス』1865
  2. ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』1900
  3. ジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パン:大人にならない少年』1904
  4. ロード・ダンセイニ『エルフランドの王女』1924
  5. H・P・ラブクラフト『クトゥルフの呼び声』1926
  6. A・A・ミルン『クマのプーさん』1926
  7. ロバート・ハワード「不死鳥の剣」(コナン・ザ・グレート)1932
  8. パメラ・トラヴァース『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』1934
  9. トールキン『ホビットの冒険』1937
  10. C・S・ルイス『ライオンと魔女』1950
  11. トールキン『指輪物語』1954

メアリー・ポピンズやクトゥルフは今で言えばロー・ファンタジーである。この二つを並べるのは過激だろうか? しかし並べてみればどちらも同じ構造を持つ物語世界であることは明らかだ。 そしてもちろんトールキンとルイスがハイ・ファンタジー(異世界もの)を確立させる。 この辺まではまあ、今の日本の一般的な読書人も何となく読んだことがあったり聞いたことがあったりする世界だろう。


英米ファンタジーにおけるフェミニズムの展開

今回あらためて小谷の本を読み返してみて意外だったのは、自分がこのクラシック作品群の次の世代の作家を結構読んでいたということ。 例えば

  • アンドレ・ノートン(1912-2005)
  • アーシュラ・K・ル・グイン(1929-2018)
  • ナンシー・スプリンガー(1948-)
  • ローズマリー・サトクリフ(1920-1992)

自分は小谷の指摘で気づいたのだが、この時期の女性作家たちはフェミニズム理論を取り込んで、前の世代の男性作家たちによるファンタジー、単純に言えば「白人でキリスト教徒の中流階級以上のおっさんが書いたファンタジー」の可能性を、フェミニズム文学として拡張しようとしていったのであり、その中で大きな役割を果たしたのがケルト神話や北米先住民神話など、キリスト教以前の土着信仰、および、魔女であったという。

魔女。

宅急便のあの子も、元を辿れば、キリスト教や家父長制文化への対抗要素としてキリスト教圏の女性作家たちが、再構築してきたものなのだ。 わかりやすい例を上げれば、『ライオンと魔女』である。あの中でライオンすなわちアスランは、キリスト教における三位一体の比喩だ。

それに退治されるのが、魔女、キリスト教の歴史において常に抑圧・弾圧されてきた「女性性・土俗性」の象徴である。

先程の女性作家たちの中では、ル・グインは北米先住民の要素を使ったし(ゲド戦記)、スプリンガーは指輪物語的な構造のハイ・ファンタジーである「アイルの書」シリーズで、世界の源をケルト的な地母神のモチーフを使って表現している。

指輪が徹頭徹尾おっさんたちの戦い(エルフの王妃ガラドリエルは巻き込まれキャラだろう)であったのを、フェミニズムの理論を使って再話したようなシリーズだ(ただしスプリンガーのような、大自然と女性をダイレクトに適応させる女性表象は1970年代からのエコフェミニズムにおいては批判対象になってしまう)。

自分が外国作家を多く読んでいたのは1980年代までなのだが、この時期はまさに英米の女性作家の作品が次々に創元と早川によって翻訳されていたので、結果的にそういうものに接していたのだろう。 ちなみにこの時期の超大物女性作家を3人挙げろとなったら、ル=グインの他に

  • タニス・リー(1947-2015,「闇の公子」「死の王」など)
  • マリオン・ジマー・ブラッドリー(1930-1999, 「アヴァロンの霧」)

になるだろうが、驚いたことにタニス・リーとブラッドリーの邦訳書は大半が絶版である。古本には場合によって元の10倍近い値段が付いている。自分は英語でも読めるので、あら、そうなんだー、で終わるのだが、日本の読書環境を考えたとき、今の若い人たちがそれぞれ名訳の誉も高い翻訳でタニス・リーやマリオン・ジマー・ブラッドリーを読めないのは、非常にもったいないような気がする。ナンシー・スプリンガーも絶版だが中古の価格は高騰していない。パトリシア・A・マキリップ(1948-)の『妖女サイベルの呼び声』は辛うじて在庫があるようだから、気になる向きはポチッとしておくのがよろしかろう。


1950年代生まれの日本の女性ファンタジー作家たち

自分自身の読書歴で振り返っても80年代終わりくらいからは、女性作家では

  • 栗本薫(1953-2009)
  • 井上祐美子(1958-)
  • 狩野あざみ
  • 斉城昌美(1954-2010)
  • ひかわ玲子(1958-)

といった辺りの日本の作家をよく読んだ。狩野は門倉純一の奥様だそうなので年齢的にもおそらく栗本や井上らと同世代だろう。つまり1950年代生まれの日本人女性ファンタジー作家、である。英米のフェミニズム系女性ファンタジー作家たちより10-20歳、若い。

この中で栗本薫は広く知られている通り、今で言うところの腐女子文化の初期のインフルエンサーにもなった作家で、そっちにハマりすぎて代表作が途中で完全に腐ってしまった人である。中島梓名義の評論『コミュニケーション不全症候群』における初期のボーイズラブの理論化という業績もあり、そういう意味ではフェミニズム文芸の一つの(変な)頂点を作ったのかもしれないが、正直、今「グイン・サーガ」の50巻以降を読む必要は無いと思うし、誰にもお勧めしようとは思わない。

井上祐美子や斉城昌美や狩野あざみは、ごくスタンダードな東洋武侠エンタメを書いた人たちである(2018年の日本ファンタジーノベル大賞受賞作『鬼憑き十兵衛』もまさにこの系譜だ)。もちろん面白く読めはするし、井上の「長安異神伝」は大傑作と思っており、今も読み返すのだが、1960-80年代の英米の女性ファンタジー作家たち(のトップクラス)が追求していたような思想性という部分では、比べるべくもない。

ひかわ玲子は代表作「女戦士エフェラ&ジリオラ」シリーズが今で言うシスターフッド(今のオタクが使う用法としての「百合」ではない。二人ともヘテロセクシュアルで作中で出産もしている)が強く出た作品ではあるが、同じ時期にアメリカのマーセデス・ラッキーが書いていた『女神の誓い』(ヴァルデマール年代記シリーズの一部)のような、強烈なフェミニズムを感じさせるものではなかった。

この視点から90年代の日本のファンタジーを見ると、小説ではなく漫画であるが河惣益巳(1959-)の「火輪」の方が、伝統的なジェンダーロールの撹乱を仕掛けていたという点では、攻めた作品だったかと思う。もちろんこの作品は物語としても傑作、名作と呼べるクラシックだ。


フェミニズム受容のタイムラグ

この、日本の女性ファンタジー作家群の第一世代(事後遡及的に、あの人の書いてたのはファンタジーだよねとなった人ではなく、自覚的にファンタジーを書こうとして書いていた人たち)の多くがフェミニズムを取り入れていないのは何故なのか。日本に欧米のフェミニズムを紹介した先駆けである上野千鶴子(1948-)のデビュー作『セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方』が1982年であるから、井上や斎城やひかわが大学生だった時期には日本ではフェミニズムを学べる学部生対象の講義は皆無だったはずなので、そこでル=グインやリーやサトクリフらの創作との思想的なタイムラグが生じたのかもしれない。

なお、現代日本の女性ファンタジー作家の、誰も文句を言えないレベルの頂点である上橋菜穂子は1962年生まれ。栗本薫やひかわ玲子らより更に1世代下である。彼女は文化人類学者でもあるので、フェミニズムについては当然、基本的なところはがっちり押さえている。角野栄子は1935年生まれだが、「魔女の宅急便」シリーズは1985年開始である。こちらは読んだことが無いので、どういったものかはよくわからない。第3回日本ファンタジーノベル大賞を『バルタザールの遍歴』で受賞した佐藤亜紀(1964-)は無論、バリバリのフェミニストであり、それが理由で小谷真理とも決別しているほどバリバリである。


理性と魔女の協働の理由

さて、何故ここまで長々とファンタジー小説におけるフェミニズムの系譜を見てきたかというと、自分自身が数日前に書き上げた長編『竜の居ない国-アルソウムの双剣V-』(現在ノベリズムに移植中)が、書き上がってみれば奇妙なフェミニズム・ファンタジーでもあったからである。

実は作中には「魔女」やウィッチクラフトが登場する。

それらは主人公が体現する理性に対し、力の劣るものとして描かれている。

これだけなら、もしも拙作が世に出ることがあれば、フェミニズムの論客から串刺しにされることだろう。

だが主人公は魔女やウィッチクラフトを否定しない。それどころか、その価値をある程度認めており、毎月、そのようなものにお金を払って、それが維持されるのを支援している。彼が何故そのような態度を取っているのか、実は作者にもよくわからない。執筆中に、これはフェミニズムの問題を避けて通れないと気づいたので、敢えて主人公がその問題に直面するシーンも書いてみたのだが、彼はあっさりと魔女に捧げ物を差し出して切り抜けてしまった。そして、最後まで書き終わってみれば、徹頭徹尾理性の人だった主人公が、冒険を完遂して人生を次の段階に進めるためのきっかけをもたらしたのは、魔女とウィッチクラフトなのである。

2019/5/27追記 『竜が居ない国』を友人の小児科医(児童虐待や女性虐待の現場で長年活動されている女性)にご一読頂いたが、フェミニズム的に「コレはないんじゃないの」というご批判は頂かなかったので、日本という国においてはほぼマジョリティである私(大和民族・男性・大卒・異性愛者)の書いたものではあるが、まあ落第ではないのではないかと、内心ホッとしている。こちらの先生のご指摘では、拙作において「理性の人」が「魔女」をサポートした理由は、それが最も現実的な解だからであろう、とのこと。