NovelJam2019でKOSMOSの二人の著者の小説を編集した際に、「物語の核」という概念が出てきた。
これは自分で考えたものなのだが、放っておくと内容を忘れそうなのでここに書き残しておこうと思う。
先日の記事で、物語に必要なのはWhoとWhatだけだと書いた。
誰が、何をしたのか。
これが物語の核になるというのが自分の考え。
ただし、「物語の核」は物語そのものではない。
では、物語とはなにか。
物語論(Narratology) では幾つかの出来事の繋がりの記述を「物語」としているし、それはそれで操作主義的な定義として、と書くと森きいこが「日本語で書け」と怒るので、「とりあえずこういうことにしておいて話をすすめるための定義」と言い換えておくが、これも非常に有用である。だが、自分が編集者として(NovelJam2019’で2冊の小説を編集したから、編集者も名乗ることにした)、あるいは小説家として(エブリスタで入賞したから以下同文)、小説を生み出すという作業をする際には、上記のような定義は使いづらい。そこで考えたのが、以下のような定義だ。
「物語とは、語り手が幾つかの出来事を繋ぎ合わせて、そこに意味を与えたものである」
ここで語り手と呼んでいるのは作中での語り手のことではなく、物語を何らかのメディアで発信する人のことである。
これは小説に限らない。
あなたの会社の部長が居酒屋で語る武勇伝もまた物語の一つだ。語り手は部長であり、出来事の繋がりに独自の意味づけを行っているのも部長だ。
では、ということで最初の話に戻る。
「物語の核」とは。
物語が幾つもの出来事の繋ぎ合わせによって生み出されると考えたとき、それらの出来事の中でも、最も重要な出来事を指す。
そこに向かって/そこから広がるように、出来事に秩序が与えられる座標。そこが「物語の核」だ。
例えば『天籟日記』には幾つものWho-Whatがある。
この図では、主な登場人物4人それぞれのWho-Whatのうち、「姫が言葉を発する」というイベント以前に発生したイベントをリストアップしている。
(ネタバレ回避のため、ここに書かれていない重要イベントもある。是非、ご購入を)
これらの全てのWho-Whatは、「姫が-言葉を発する」というイベントを発生させるために、作中に配置されている。
そして、「姫が-言葉を発する」前と後では、作品世界中の秩序のありようは決定的に変化する。すなわち、「姫が-言葉を発する」というWho-Whatがこの小説全体を支配するWho-Whatなのであり、それを自分は「物語の核」と捉えている。この図に登場する4人にはそれぞれ、この小説以前の話もあれば、この小説以後の話もあるのだが、それらは全て、「姫が-言葉を発する」というイベントから生まれたものなのだ。
おそらく森きいこの中には、彼女が「イマジナリーフレンド」と呼ぶ、数多くのキャラクターがいて、彼・彼女ら4人もその中の一部だったと思われる。そして、「姫が-言葉を発する」というイベントを彼女が思いつき、そこを物語の核に据えたことで、4人がこの「天籟」という国の物語の登場人物として、明確な形を与えられたのである。
このプロセスをよく見て欲しい。
- まず、「物語の核」があり、そこから登場人物たちが生まれ、数多くのエピソードが生まれる。
- 登場人物たちやエピソード群は一編の小説という枠組みを越えて増殖し、一つの物語空間を構築し始める。
- 小説は、その物語空間の一部を切り出したものでしかない。
- 更に大事なことは、これらのWho-What群は同じであったとしても、語り手が変われば、異なる物語が生まれるという点である。
NovelJamの最中にも自分は森きいこに「代わりに書いてやろうか」と圧力をかけていたが、実際に自分も同じプロットで小説を書くことは可能だ。だが、出来上がるものは、森きいこが書くものとは全く異なるものだろう。自分の文体で『天籟日記』の冒頭を書きかえてみたのだが、それは全く手触りの違う小説になっていた。
当然の帰結だ。自分と森きいこでは、好きなものも拘りもこれまでの経験も異なるからだ。
これが、「物語の核は物語そのものではない」ということの証明である。同じイベント群であっても、見る人によって意味合いは異なり、語る人によって意味づけは異なる。だから、同じ事件をもとに無数の物語が語られるのだ。
さて、森きいこの『天籟日記』を生み出した「物語の核」は、とてつもなく強力なものである。これから、数多くの物語を生み出し続けるだろう。
その最初の一編を、皆さんも是非、読んでみて欲しい。