NovelJam2019′ グランプリ部門の前半戦が終わった。
このグランプリ部門、何を競っているのか、実は我々にもよくわかっていない。何しろルールがプレイヤーに明かされないまま進んでいる闇鍋のような大会である。チェックポイントも配点も明かされないロゲイニングのようなものだ。どちらにゴールが設定されているのかも漠然としか伝えられていない。
「電子書籍を売れ」「新しいことを考えろ」「NovelJamそのものも宣伝しろ」という三つの謎掛けを与えられた44人が広大なネット/リアル世界に散って、1ヶ月半後にどのチームが1位だったかが明かされる。そういう競技である。競技と呼んで良いのかさえ怪しい。ビジネスデベロップメント案件であれば「販促」なのか「イノベーション」なのか「大会の宣伝」なのかどれかはっきりしてくださいと、現場からブーイングのハリケーンが吹き荒れる仕切りだ。
だが、我々KOSMOSは大いにこれを楽しんでいる。
わからないからといって楽しめないわけではないのだ。何しろチーム4人のうち古狸系の煮ても焼いても食えないおじさんが2人である。こういうおじさんたちは、勝手に遊び方を発明して遊んでしまえる。
我々のチーム内での大まかな役割分担は、編集加藤がチーム全体のコーディネーター兼ディレクター。NovelJamの古豪・澤さんがセルパブのオペレーターとデータアナリストで、こばじ神はもちろん神イラストを量産し、女王きいこは女王役に徹している。それぞれが得意領域をカバーしつつ、お互いに手が足りないところはヘルプに入るような組織だ。
そして、ほぼ毎日のように新しいコンテンツを投下している。
これらは全て、チームのそれぞれがどんどんアイデアを出して、さっさと手を動かして、公開しているものだ。
11月中盤は女王きいこが諸事情によりまったく動けない時期が続いたが、他の3人が女王の不在をカバーすべくせっせと追加コンテンツを作り続けた。森さん何やってるんですかなんて声は一言も出なかった。一番つらいのは本人なのである。こういう時こそ仲間がカバーしなければならないし、私からわざわざそんなことを言う必要もなく、チームは当然のようにそう動いた。
これが昔ながらの、小説家の先生がいて、編集や挿絵画家がいて、というヒエラルキーのある組織であれば、主役である小説家が動けなくなった時点で全てが止まっただろう。
だが、KOSMOSはそういう組織ではない。それぞれが、思いついたことをどんどんブレスト用のチャットルームに共有し、必要な資源を調達し、どんどん実装する組織だ。
何故そうなるのか。我々が制作しているのは、実は、小説ではないからだ。
エンターテイメントプロダクツである。
「we’re Men’s dream」という短編小説シリーズ、「天籟日記」という短編小説シリーズは我々のプロダクツの中核ではあるが、全てではない。
より正確に書くと、上記の2シリーズの電子書籍の中に並んでいる文字群だけが、我々のプロダクツの全てではない。
例えばキャラクターデザイナーのこばじによるキャラクターイラスト群は、KOSMOSの生み出すプロダクツの中核である。文字と同等の重み・価値がある。
「天籟日記」のイラストを漫画家の小森羊仔先生が描いてくださったが、小森先生はわざわざキャラクターデザインはこばじであると書いておられるし、実際にキャラクターデザインはこばじのものが踏襲されている。何故ならば、「天籟日記」という作品において、こばじのキャラクターはプライマリ・テクストだからだ。ここを差し替えると、作品そのものが別のものになってしまう。そういう位置にある。だから、仮にこばじがムオやドリューの新しい絵を描き下ろすと、それは自動的に「天籟日記」のオフィシャルコンテンツになる。
もちろん、「天籟日記」オフィシャルペーパークラフトも、公開前に著作権者であるこばじの監修と了承を得るという手続きが取られている。NovelJamのチーム編成フェイズで加藤からこばじにオファーを出す際に、最初から「我々はキャラクター小説を作りますが、キャラクターのビジュアルの版権はこばじさんに帰属します」という条件を明記していたからだ。もしも「天籟日記」がこの後、大ヒットするIPに化ければ、キャラクターの版権を持っているこばじにも大金が入る。そうでなければいけないと私は思っている。キャラクター小説において、キャラクターのビジュアルのデザインはそれくらい大きい。
もちろん、文章やビジュアル以外のコンテンツも大事だ。
キャラクターや物語世界の設定。これも重要なコンテンツである。
SNS上での著者や編集者の発言や、やり取り、これも重要なコンテンツだ。
チームのメンバー以外の作ったものも、KOSMOSのコンテンツだ。
羊谷氏に依頼して書いてもらった書評は重要な、そして素晴らしいコンテンツである。そこには「we’re Men’s dream」への明確な批判が書かれている。だが、それが書かれたことで「we’re Men’s dream」の楽しみ方は拡張された。良質な批評とは作品の読まれ方の可能性を拡張するものだからだ。
おそらく明日か明後日には公開されるであろう、KOSMOSの電子書籍群のDLデータのプラットフォームごとの分析レポートもまた、興味深いコンテンツとなるだろう。
文章。キャラクターデザイン。キャラクターグッズ。設定資料。SNS。二次創作。書評。データ分析レポート。ウェブ上での公開校閲。料理のレシピ。これら全てをエンターテイメントプロダクツとして提示することで、我々は何をしようとしているのか。
答えはシンプルだ。
ウェブ・エンターテイメントである。
コンテンツの消費者として楽しんでもらい、可能ならば二次創作で、あるいはSNSでのやり取りで、批評で、ついにはマーケティングデータで、KOSMOSを楽しんでもらう。というよりは、一緒に楽しむ。消費すること、創造すること、コミュニケーションすること、考えることを。もしかしたら、それ以外の何かをも。
小説を書くことや、小説自体は、少なくともKOSMOSの中では特権化されていない(そういう価値観がお望みならKOSMOSは場違い。ブンゲイファイトクラブがお勧めである)。
KOSMOSという枠の中では、書くことと、それを読むことと、それにカネを出すことと、それを批評することは、どれも同じように尊い。リツイートやLIKEでさえも、ここでは尊いものだ。
そのどれもが、生きていることの証だからだ。
忘れてはいけない。
カネを使うことは楽しい。カネをもらうことも楽しい。
カネは人と人のコミュニケーションツールだ。創作があり、その先のどこかで必要悪として売ることがあるのではない。そういう考え方をする人も存在して良いが、私はそれに同意出来ない。カネをやり取りすることと文芸創作は、同じレベルで楽しく、尊く、価値があるのだ。それらを切り離して考える必要すら無い。それらはどれも、現代に生きる我々の生そのものだ。
KOSMOSはプレイパークのようなものである。
On your own riskで、何でもありだ。
コンテンツやマネジメントへの批判も大いにありだ。それらが面白ければなおさら良い。ここで、面白いというのは、より広い可能性への切り通しを開削するという意味だ。「こうでなければならない」「こうあるべき」というのはつまらない。
「こうしたらもっと色々なことが出来るのではないか」「こういうことも出来るはず」「こうしたらもっと予期せぬ事故が起こるのではないか」というのが面白い批判だ。
このプレイパークで問われるのは、「お前はどれだけ今を楽しんで生きているか」、それだけだ。これまでの実績など考慮されない。文芸村の古株ですとか、商業出版でこんだけ本出してきましたとか、SO WHAT? である。そんなことはどうでも良い。お前の過去になど興味は無い。今どれだけお前の生がスパークしているか、だ。
そうやって、小説という、17世紀から20世紀にかけて栄えたオールドメディアに接続されるものを増やしていきたいのである。我々は。
そして、より多くの人々が、KOSMOSという領域の中で、それぞれのスタイルで、生きることを楽しんでくれれば良い。