非常時の不謹慎の効用

自分は昔から日本の「お笑い」の面白さが理解出来なくて、岡村隆史も前回まともに見たのは1994年にリトバルスキーとサッカーをしているところだったはず。ナインティナインがというよりは、吉本興業全般が趣味に合わず(吉本だけではない。ドリフターズも趣味に合わなかった)、普段から全く接していない。

ビートたけしも明石家さんまもよくわからない。

ここだけの話だが息子には「バラエティなんか見たらアホになるぞ」といつも言っている。

お笑いタレントを蔑視しているのかと言われれば、蔑視ではない、賤視だと答えるつもりだが、誰かそれ以上突っ込んでくれるだろうか。

(中世の被差別民の話にまで持っていって長文の解説を返すことになる)

さて、COVID-19対策による広範な経済活動の自粛の中、不謹慎なものへの風当たりがいつにも増して強くなってきている。

自分はお笑いを忌避しているくらいだから、不謹慎なものは好きではない、というか、興味を持たない。

堀江貴文など特に不謹慎なやつだなあと昔から思っているので、彼の話はフィルターをかけて、流れてこないようにしている。堀江貴文の放言などいちいち真に受けているのは時間の無駄だからだ。

だが、コロナストレスで社会が魔女狩り横行時代のヨーロッパのような異様な雰囲気になってきた今、それでも不謹慎を貫いている堀江貴文のような人間の存在する意味が理解出来たような気がしている。

教条的左翼活動家が岡村隆史を徹底的に追い詰めて吊し上げようと煽動を続け、大衆は岡村隆史を芸能界から追放しろと声を揃える光景を見て、第二次大戦前夜というのはこういう雰囲気だったのではないかと感じる。あるいはサヴォナローラの時代のフィレンツェか。

一人ひとりのストレスが高まると、普段ならスルー出来るような些細なことにイラッとする。それが束となり、渦となって不謹慎狩りが暴走するのかもしれない。

道化役を演じるのが職能である芸能民が、たった3分間の不謹慎で血祭りにあげられる。これは恐ろしいことだ。

不謹慎は本質的に不謹慎で、褒められたものではない。不謹慎は平時には大した価値を持たないと言って良いかもしれない。

だが、非常時には、非常時にこそ不謹慎は残しておかねばならないような気がしている。社会が正気を保つために。不謹慎を「不謹慎なやつだなあ、そういうのは隠れてこっそりやるもんだ」とやんわり諌める余裕があるうちは、社会は正気の範囲内だ。

だからといって自分が堀江貴文のツイートを読んだり、岡村隆史のオールナイトニッポンを聞くことは今後も無いのだが。