余白のアートフェア2を終えて考えたことをまとめる(プロマネ編)

余白のアートフェア1&2には41年分の試行錯誤が詰まっている

 私はこれくらいの規模のイベントは数え切れないくらい手掛けてきたのだけれど、余白1&2はその中でも特に上手くいったイベントという実感がある。ただし偶然そうなったということでもない。

 私のイベント企画&マネジメントの歴史は長いんだけれど、最初に失敗したことがとても大きな学びになったと思っている。それは高2のときに演劇部で企画した記念祭(文化祭)の演劇。41年前かな? このとき、自由な演技をやりたい仲間の演劇部員と「こうじゃないとダメなんだ」という演出の私が大喧嘩して2週間くらい練習が止まった。結局、3年生の先輩に仲裁をお願いして仲直りして舞台を完成させた。

 その時に学んだのは、何かを作ろうというコミュニティの流れ、勢いを無理に曲げようとしてはダメなんだということ。高2の春にもう一度演劇部で演出をやらせてもらって、それはもう少し上手く行った。

 ちなみにそのときに大喧嘩した相手とは今も一緒にものづくりをしている。

軽音楽部、バナナ楽団

 大学では軽音楽部に入った。1年生のときに先輩の指示で組んだバンドもあまり上手く行かなかった。「こうじゃないとダメなんだ」というこだわりが強いメンバーがいて、みんなが離れてしまった。

 2年生の秋に気の合う仲間を集めて「楽しさを追求する」バンドを組み直した。このときには演劇部のことを意識して、みんながやりたいということは全部「良いじゃん、それ、やろうぜ!」と言うようにした。ジャンルも衣装も何でもOK。プログレもやればブルースもやった。当時は気づいていなかったけれど、米米クラブにとても近いスタイルだった。

 このバンド、「バナナ楽団 / Banana Moon Ensemble」のセカンドギタリストとはその後、結婚して今年で結婚26年目になる。「彼女と結婚したことは自分の人生で最高の出来事です」と余白のアートフェア2の夜のパーティーで松本悠以先生・Shoko Kitamoto先生に話したら大騒ぎされた(笑)

院生時代

 大学院でも院生と学部生の交流パーティーを色々企画して毎回盛り上がった。私が入るまでは地味で静かな研究科だったけれど私がいた2年間はお祭り騒ぎが多かったかな。茨城大学に移る矢澤千宣先生の送別会のために院生・学部生バンドを組んで演奏したりもした。

 博士課程浪人のときにスペインに新婚旅行に行って、当時盛り上がっていたメーリングリストの一つ、スペインMLに参加した。そこでも大いに盛り上がって写真展をやろうということになり、原宿の貸し画廊で実際に写真展をやった。あれが自分の最初のキュレーションだった。この写真展は第2回もあったけれど私はそれには参加せず、写真展はその第2回で終わったらしい。

 EL4/5系のカローラ2、ターセル、コルサのオーナーズクラブを運営していたのもこの頃。あれもあちこちで孤立していたとんでもないファンたちが集まってきて熱かった。ホクレアの2006-2007の日本航海も、あのときあそこに私がいなかったらどうなっていたと思う? あんなに盛り上がらなかったでしょう。

教員時代とファザーズバッグ開発と

 大学の先生になったら、今度はゼミで色々なことをやった。一番大きかったのはパルテノン多摩でやった現代アート展だったけれど、それ以外にもヴェルディの宣伝企画提案プロジェクトとか伊豆大島プロジェクトとかロゲイニングプロジェクトとか、とにかくお祭りが絶えないのが加藤ゼミだった。学外の人をどんどん巻き込んだ。

 このときに繋がった人たちとやっている仕事もいっぱいある。

 三菱商事ロジスティクスさんやTNTエクスプレスさんとのインターンシップもあったね。学生たちと組んだバンドもあった。

 ファザーズバッグ開発プロジェクトも考え方は同じだった。オープンイノベーション。作っているうちからどんどん経過をアップして、コメントでもらった意見も反映していく。NovelJam2019でグランプリを取ったのも同じスタイル。

 熱気を集める。勢いを止めない。加速させ、加速させていく。ウェブとリアルをシームレスに繋ぐ。通りすがりをどんどん巻き込んでいく。ムーブメントにする。

熱を集める

 余白のアートフェアはそういった手法を総動員して作った。1回目も2回目も、開催中から「次回はいつですか?」と聞かれる。参加したアーティストさんたちが「次はどうしよう」ということを考え始める。

 マーケティングでもまちづくりでも「コミュニティをつくる」、なんて簡単に言うけどそれは実は最高レベルの難易度のプロジェクトで、形がそれらしく整えられてはいても実際にそこに熱気が集まり、創造性が立ち上がり、それに引き寄せられて人が集まってくるというレベルまで持ち上げるのは・・・・簡単ではない、というよりも「それが出来る人材は超希少」。広告代理店に大金を払えば見た目はコミュニティっぽいものをホイサと作ってくれるけれど、カネが止まればそこでそれは終わり。廃墟しか残らない。

 聖地巡礼マーケティングが立ち上がってはコケ、地域アートプロジェクトが現れては消える理由も同じ。

 熱を集め、創造性を加速させる魔術師がそこにいないから。何かのジャンルに耽溺する人をオタクと呼ぶならば、オタク魂を深く理解し、オタクたちの魂に火を点け、オタクたちを集結させる方法を身に着けた魔術師が。熱を集めるというのはエントロピー増大の法則に局所的に逆らうことだ。それは魔法だ。簡単に見えてもその裏には膨大な魔術師の修行がある。

 余白のアートフェア3。まだ何も決まっていない。そこに私がいるのかどうかも私自身わかっていない。ただ、余白1と余白2を愛してくれた人たちは裏切らないようにしようとだけ思っている。