NovelJam2019′ 著者ドラフトの日を終えて

NovelJamの重要なコンテンツの一つが参加者による参戦記だとされている。

私も先達の参戦記は大量に読ませていただいたので、お礼代わりとして、2019’という新しい(おそらく過渡期の)フォーマットのさなかにある者の視点から、ここまでを振り返って記録しておく。

さなかにあるということが、この記事の価値になると思う。

なお、これを書いている時点では著者ドラフトの結果さえ定かではない。著者ドラフトシステムが今後も継続されるかはわからないが、著者ドラフトシステムというもの自体の吟味にも益するところがあれば幸いである。

さて、中間報告。

まず、自分の参加目的についてもう一度。

「尖った人、気が合う人と出会うこと。」

これに尽きる。自分はスキルアップは独学で進められる人間なので、小説を書くことの技術は今後も自力で向上させられることがわかっている。だが、面白い人、尖っている人との出会いは、自分の知らない場所に飛び込まなければ発生しない。だから応募したわけだ。

次に、ここまでの成果。

これは、想像を、予想を、遥かに越えていた。もちろん、プロデューサーの波野氏が指摘した通り、単にアプライして選択されるだけではそうはならなかった。積極的に動いた結果である。

NovelJamの会場に来て、椅子に座って、ただ帰る。そうであれば、そいつに誰も何も与えてはくれないだろう。差し入れのお菓子を少し分け与えることしか、ぼくらにできることはない。

しかし。だ。NovelJamの参加者は、椅子に座るために三鷹に集まるのではない。差し入れのお菓子を食べるために参加費と交通費を負担し、貴重な休日を捧げて、そこに集まるわけではない。過去三回のぼくもそうだったし、今回のみなさんもそうであるだろうし、次回以降のまだ見ぬ人々も、そうであろうと思う。

具体的にどんな成果があったのか。尖った人との出会い、才能との出会いである。

この人は自分と同じくらい尖っている。最初にそんな人を見つけた。すぐに連絡した。話してみたら、好きなものが大量にカブっている。この人と組みたい。絶対面白いものが作れる。だから、そう伝えた。あなたを指名します。決めましたと。

二人目を見つけるまでにはちょっと時間がかかった。まず、「顔出しOKで捨て筆名ではない人」という時点で選択肢が限られる。次に、公開されている作品を拝読してみて、趣味嗜好が違うものは選択肢から外れる。何故ならば、その書き手の書くものに熱狂出来なければ、最高のものは作れないからだ。小説は最後は編集者ではなく読者に読んでもらわなければいけないし、NovelJamの読者は、お金を払ってくれた読者である。愛とともに手渡せないものを売ってカネを取るくらいなら、やらない方がマシだ。

BLや不条理SFやOL恋愛小説に熱狂出来ない自分がそういうものを専門とする著者の作品を編集しても、最高のものは作れない。理屈の部分で「やるだけやりました」というものは作るだろうが、その先までは行けない。愛がないからだ。

だが、結果としては、幸運にも素晴らしい可能性を持った書き手に出会うことが出来た。

まず、これまでに書いたものを色々見せていただき、少なくとも自分は嫌いではないなと思った。趣味も何か所かでカブっている。中でも天元突破グレンラガンが好きというのは極めて重要なことで、グレンラガンが好きなクリエイターは基本的に信用出来ると思っている。教え子で女優になった當瀬このみもグレンラガンがフェイバリットアニメだそうだし、JAXAはやぶさラストショットブック&トートを一緒に作った住田厚美もカミナ推しだ。

ふざけているのではない。カミナの死からシモンの復活、そしてキタンの死、カミナとの再会、アンチスパイラルとの最終決戦。あれが好きだという人ならば、方向性は確実に合う。

当家の神棚

決定的だったのは、自分が本当に表現したいのはこういうものです、といって教えてくれた、とある作品だ。

その場で検索したら、パブリックドメインだったので読むことが出来た。それを読み終わった瞬間に確信した。この人は100万部売れるものを書ける可能性を持っている。

そう確信した理由は二つある。

まず、ものを創るという行為の目指している先が、自分の内面の表現で終わっていないということ。内面の表現の先に、広大な世界が想定されている。わかってくれる人だけわかってくれれば良いです、ではなく、自分の表現で世界とネゴシエーションしようという構えがある。これはとても大事なことなのだ。

社会科学ではNegotiationとは、合意形成が必要であるけれども直ちにはそれが成立しないissue(論点)を、合意形成に向けて相互にやり取りしながら進めていくプロセスを意味する。もちろん、小説を発表するという行為にネゴシエーションは無くとも良い。そもそも、クリエイターにとってネゴシエーションは決して愉快な作業ではない。より多くの場所に届けるならば、より多くの他者と出会うことになるからだ。慣れ親しんだ界隈を出て、旅行者ではなく営業パーソンとして世界を周るのは、骨身を削る作業でしかない。出来ることならやりたくない。めんどくさい。当たり前だ。

だが、より多くの場所に表現を届けようと思うならば、ネゴシエーションはした方が良い。だから、より多くの場所を目指せる人とは、肚が座った人である。

この人は肚が座っていると私は感じた。

そして、この人が世界とネゴシエーションしようとしているものは、現生人類のほとんど全ての個体にとって価値あるものだと思った。70億の現生人類のうち69億5897万6554人くらいまでは、この人がこれから生み出すはずのものを読んだら、きっと、泣く。

だから、絶対にあなたと組みたいと伝えた。

では、これからどうするか。

何をするのかは決まっている。良いものを作って、全力で売る。それだけである。だから、別の視点から書く。

これから我々が作ろうとしているものは、端的に言って芸術である。現代アートではなくポピュラー文化の商品であるから、分析哲学的な視点では芸術とされ難いものになるだろうが、現象学的に見て芸術作品であるものを作るつもりである。

そういうものを作るときに大事だと自分が思っているのは、とにもかくにも「嘘をつかない」ということだ。

クリエイターたちが自分に嘘をつきながら作る作品では、そこに世界は宿らない。

クリエイターたちが自分に嘘をつかなくて済む状況を作るのは自分の責任である。

当然、マネジメントでも嘘は一切つかない。隠し事もしない。特に大事なのはお金のことで、お金についてクリエイターたちが腹を割って話せる環境を作れなければ、最高のものは作れないと思っている。

他人の足を引っ張るのもダメだ。競技スポーツならファールで敵を止めるのもルールの範囲内だが、芸術ではファールは不要だ。そんなヒマがあったら自分たちの作品に向き合うべきだ。それぞれ、信じたものに真っ直ぐ突き進め。自分はその邪魔はしない。新規事業開発支援では同僚の足をさり気なく引っ張る人間を嫌というほど見てきたが、そういう人間は大したものは生み出さない。自分が突き抜けたければ、まずは他人の足を引っ張らないことだ。我々のチームは真っ直ぐ、全力で、芸術を目指す。そういう場を作る。

世界は我々のことなど知らない。だが、今や我々のてのひらの中には、世界に届ける価値がある何かの種がある。兆しがある。だから、それを真っ直ぐ世界に届けに行かねばならない。

以上、ドラフトの結果は出ていないが、今思っていることを書いた。これらを一言でまとめれば、こうなる。

「行くぜ! ダチ公!」

 

コアドリル(「天元突破グレンラガン」26話より)