日本のSFの過剰なコンテキスト集積と、それによる参入障壁

日本のサイエンスフィクションのサークルを見ていると、数人の中高年男性のオピニオンリーダーがシーンを作っている日本のアート風写真の市場に似たものを感じるが、さてこの印象は正しいだろうか?

ある国の特定の大衆文化のシーンの構造がどうなっているかは価値判断の対象ではないが、社会学的には興味深い問題だ。

別の視点を提供するならば、ローカルに膨大なコンテンツとコンテクストが集積されている上に言語障壁によって英語圏と断絶に近いバリアがある日本のSFのような場は、ジャンル全体の多様性という意味では望ましくさえある。

唯一懸念があるとしたら、ローカルのコンテクストが過剰過ぎるので、そのコンテクストに徹底的に適応し続けなければクリエイターがローカルで生き残れない、あるいは評価されないという構造が生まれてしまう可能性か(これは日本のアート風写真シーンの話だが)。

ところで、ふと気になってヒューゴー賞やネビュラ賞の運営団体の公式ツイッターアカウントを確認してみたのだが、日本語のSF文芸のコンテンツクリエイターのフォロワーは多くない(というか、見つけられない!! マジか!!!)。

例えばゲンロンSF講座に通っている/いたような人たち、創元やハヤカワのSF新人賞に応募しているような人たちが全く英語圏のSFやFantasyのリアルタイムの動きを追っていないとすると、日本のアート風写真シーンが飯沢耕太郎のようなローカルのオピニオンリーダーたちに囲い込まれて、世界のアート写真の動向からほぼ断絶している状況に似ていると言わざるを得ない。

繰り返すが、それは価値判断の対象ではない。

ただ、独特のシーン構造であるということは指摘して良いだろう。