ブレイディみかこ、想像以上に不思議なことを言う人だった。
UKは歴史的に社会階層によって文化が凄まじく違うから、階級の問題が多様性をいかに社会として包含していくかという議論にすっと結びつくんだろうけれど(そこから英国流カルチュラル・スタディーズやポール・ウィリスの古典的研究が生まれたわけだ)、日本は第二次大戦敗戦と重い相続税で先祖代々の大金持というのはどんどん消えている。UKのように言葉まで違うというほどのタテの文化差は無い。
もちろんブルデュー的な意味での文化資本の格差は、日本社会内でも無視できないくらいに大きいけれども、エスニシティやナショナリティやジェンダーや性的少数者(や障害者)の問題よりもそちらが重要とまでは言えないのではないか? 私の友人にはそれこそ旧華族や豪商の末裔がわさわさおるけれども、当代は公務員やサラリーマンばかり。文化的な距離感は、大和民族の貧困層と東大卒の間よりは、大和民族の東大卒と外国の名門大を卒業した外国人の方が大きいはずだ。
貧困や格差はそれ自体、大きな社会問題だし、マイノリティがマイノリティであるがゆえに貧困に置かれやすいというように、多様性の問題と関係が深いのは確かだけれども、「多様性の核心は貧富の差や格差」という主張は乱暴に過ぎる。
例えばこう考えてみると良い。
Aという企業の総合職正社員として100人がいる。この100人は全員が同じ額の給料をもらっているが、50人は女性、10人は性的少数者、10人は身体障害者、10人は精神障害者、そして国籍は10カ国で宗教は7種類あり、母語は8種類、年齢は20歳から65歳まで分布していて、最終学歴は中卒から博士号持ちまでいる。
ブレイディみかこの主張が妥当ならば、この100人の社会集団では多様性は問題とならない。何故ならば所得が完全に同一だからだ。
マネージャー経験者なら直感的にわかるはず。
この100人からなる組織、放っておいたら地獄の釜みたいな阿鼻叫喚になるって。
もちろんこういう100人が円満にやれる組織は可能だが、それは所得を均してもなお社会学的な問題を数多く孕む「多様性」を包含出来る組織を実現する(相当に難易度が高い)マネジメントが実行されているからだ。
ちなみに貧富の差や格差は統計学だと「比例尺度」で、ジェンダーやセクシャリティやエスニシティやディスアビリティは「名義尺度」。全く別種の変数。
ブレイディみかこの本を何度読んでも感銘を受けなかった理由が、わかったかもしれない。悪い本ではないが、社会学者から見ると新鮮味に欠けたり掘り下げが物足りない。
では何故あれほど売れたのか。これは「猫も杓子も勝ち馬に乗りに殺到する」というSNS時代だから、という以外に思いつかない。たまたまモンスターヘッドに行く流れにハマった本なのだ。選択肢があまりにも増えすぎた現代において、とりあえずこれを買っておけば「本を読んでいる」というシグナリングにもなり、「語る」ネタにも出来る本が求められるというのは、中島梓が『ベストセラーの構造』で指摘して以来、一貫して続いており、近年ではそれは強化さえされつつあるようだ。