設定を作り込むことと物語を作ることは対立するのか

「設定厨」という言葉がある。

「設定中」ではない。

厨、というのは「厨房」の略である。

「厨房」とは本来は食事を作る場所のことだが、日本のインターネットスラングにおいては別の意味で使われる。

この定義だと「設定厨」とは「言動が子供っぽい設定」あるいは「設定が子供っぽい」という意味のようにも思えるが、別の場所にはこのように書かれている。

 

つまり、「設定厨」とは「設定気違い」の言い換えであると理解出来る。

では、気違いとは何か。

このように辿ると、Wikipedia内部においては「設定厨」とは「設定に関して理性が欠如した人」「設定愛好家」という意味となる。

何故このようにして「設定厨」という言葉を、本稿において細かく検討してきたのか。

きっかけはこれだ。

ちゃんとSFとか書きたいんですけどね。
なにぶん設定厨なのでなかなかアウトプットできないとです。

(出典[NJ2019]結局誰だよこんなだよ

ここでは、「設定厨」(彼がどのような意味でそれを使っているのか確定出来ないので、原文のままとする)はアウトプットをなかなかしない、できないと考えられているように思える。

ここに違和感を持った。

私は自分の小説について、以下のように書かれたことがある。

小説? むしろ設定集かな。
設定集と思えばおもしろい。つか、すごいなー。
よくここまで設定つくったものだとびっくり。

ただ小説という感じはしない。文体も内容も。
硬い文体がダメってわけじゃなく、設定ばかりだなという印象。ひたすら設定。設定。設定。脳内思考の文字化。
設定集と思ったら、よくここまで設定を作ったなって驚くし、おもしろんだけど。

(出典 「兵站貴族」感想・レビュー欄

思考が脳内以外のどこに存在しうるのかという身体哲学的な問題にもさらりと触れている好レビューである。

それはともかく、「むしろ設定集」とまで言われる小説(エブリスタの小説コンテストで入賞したのだから小説と認められたのだと思う)を書くのだから、自分は「設定厨」と呼ばれる資格は充分にあると思っている。

ではアウトプットが少ないのか?

「兵站貴族」のファイルのメタデータを確認してみる。

4ヶ月と25日の間に225時間41分間をファイル編集に使い、106459文字を書いたことになっている。

夏のキャンプ旅行10日間の間はスマホのエディタで毎日書いていたから、実際にテキスト入力していた時間はこれよりも30時間くらいは多いだろう。

平均して毎日1.7時間は書いている。なお、縦書き原稿用紙フォーマットに変換すると352ページも書いているとWordが言っている。

「設定厨」として多いのか少ないのか、他の人の生産力を知らないので判断が難しいが、5ヶ月弱で352ページは、「まあまあ」なのではないかと思う。

ちなみに同じくらい「設定厨」な長編を3月頭から5月末までの3ヶ月で脱稿している。そちらは原稿用紙450枚ほどである。しかも作中には書かなかった設定は山のようにある(全部Onenoteに整理して保存してある)。

我が身を振り返って考えるならば、少なくとも設定(ここでは英語でいうSettingとCharacterの両方を含むものとしておく)を作り込むことと、アウトプットが減ることは、ゼロサムゲームの関係とは言い切れないのではないか。

では「設定厨なのでなかなかアウトプットできない」という主張は、どう解釈すれば良いのだろうか。

一つは単なる言い訳である、という可能性。それは仕方が無い。人にはそれぞれ事情があり、また言い訳をする権利も自由もある。それは侵すべきではない。言い訳もまた文学の営みの一部である。

だが、ここでは別の可能性を考えてみたい。

設定を作り込むことはアウトプットではないのか、という問いだ。

先回りしておくと、「設定を作り込むことは、むしろアウトプットに繋がりうる」と言えるのではないかと自分は考えている。

その代表的な事例が永野護である。彼は代表作「ファイブスター物語」の本編14冊に対し、7冊もの「設定集」を出している。「設定集」に割いた時間を全て物語の進行に使っていればどうなっただろうとも考えてみるのだが、おそらく、物語は進まなかっただろう。彼(や私)において、設定を作るとは、物語を作ることそのもの、あるいはその不可欠な一部なのである。

自分の感覚では、小説においてテクストと設定は人と動線の関係にあるように思える。ここでは動線とは、建物の中における人の移動経路のことを指している。

動線(どうせん)とは、建物の中を人が自然に動く時に通ると思われる経路を線であらわしたもの。建物の間取りを設計する際に気をつけなければならない。設計の際に利用者の行動パターンを予測し、より明快に、また移動距離が長くなりすぎないように平面計画を練る。設計において動線を特に考慮することを動線計画という。

小説において読者が辿るのは文字と挿絵、すなわちテクストである。このテクストが動ける範囲は、設定によって外枠が決められている。例えば特殊能力を持たない現生人類の個体という設定の登場人物は、生身のまま冥王星軌道上で地球外生命体の宇宙戦艦を殲滅することは出来ない。それをさせたいなら、そのような設定を作る必要がある。

つまり、小説世界の外枠を冥王星軌道と地球外生命体まで拡張するのだ。

それで、少なくとも登場人物の誰かは冥王星での戦闘をすることが出来るようにはなるだろう。

だが、単に小説世界の外枠を拡張しただけでは、登場人物はなかなか冥王星まで飛んではくれない。冥王星に行くには理由が必要だからだ。

ここで下手な書き手は設定のうちcharacter領域に理由をポン付けしてしまう。殺された恋人や家族の復讐なんてのが典型的だ。あれは万能の動機ドーピングだが、万能であるだけに「またかよ」となる。慎重に検討すべきである。文学的ではあるが、使い古された文学だ。止めた方が良い。

上手い書き手はsetting領域に理由を注意深く埋め込む。charaterとcharacterの間、つまり社会科学的な領域である。法制度、慣習、経済、社会現象、組織行動、思想。それらが複雑に組み合わさって動作した結果として、登場人物は冥王星へと向かう。彼/彼女が冥王星に行って異星人との戦闘を行って戻ってくることに法律上の問題は無いのか、経済的に可能か、その社会の慣習に対してどのような位置づけとなるのか、そのキャンペーンと並行して何らかの社会現象は発生しているのか、どんな組織の中に彼/彼女はおり、その組織はどのような動態を見せるのか。人々の思想における冥王星での戦闘の意味づけは。

もちろん、そんな設定の95%は本文中には書かれない。しかし、こうした設定を作る際、そのあらゆる部分において、小説家は物語を埋め込むことが出来る。実は、出来る。動線設計の喩えを再び持ち出すならば、物語を埋め込んだ設定を作るとは、優れた動線設計をすることであると自分は考えている。優れた動線設計を持つ建築や公園は、その中で活動する人々を自然に、然るべき場所へと連れてゆく。設定も同じだ。優れた設定は、それ自体が登場人物たちを物語へと導き続ける。

人と人の間にあるもの、社会は、全てが、過去そして現在に生きる人々の物語の束である。法律の条文の中にさえ、物語は埋め込まれている。令和元年の民法817条の5の改正条文の中には、おそらく膨大な物語が形を変えて潜んでいるだろう。

令和元年6月14日
法務省民事局
令和元年6月7日,民法等の一部を改正する法律(令和元年法律第34号)が成立しました(同月14日公布)。  特別養子制度は,家庭に恵まれない子に温かい家庭を提供して,その健全な養育を図ることを目的として創設された,専ら子どもの利益を図るための制度です(特別養子制度の概要【PDF】)。  現在,児童養護施設等には,保護者がいないことや虐待を受けていることなどが原因で,多数の子が入所していますが,その中には,特別養子縁組を成立させることにより,家庭において養育することが適切な子も少なくないと指摘されています。そこで,特別養子縁組の成立要件を緩和すること等により,この制度をより利用しやすいものとする必要があります。  今回の改正では,特別養子制度の利用を促進するために,特別養子縁組における養子となる者の年齢の上限を原則6歳未満から原則15歳未満に引き上げるとともに,特別養子縁組の成立の手続を二段階に分けて養親となる者の負担を軽減するなどの改正をしています。

小説において、このような設定を作ることは、物語を作ること以外の何物でもない。設定を先にアウトプットしてしまって何が悪いのか? 何も悪くない。堂々とアウトプットしたら良い。それは小説の一部である。一部でも良い。設定でも良い。さっさと書け。そしてアップしろ。「公開」をクリックするのだ。今すぐ。お前が小説家を名乗るならば。