改めて調べてみると、思った以上に自分はファンタジーというものを読んでいたことに気づいた。
- エレン・カシュナー『吟遊詩人トーマス』(1991)
- ジーン・ウルフ『拷問者の影』(1981)
- エイブラハム・メリット『イシュタルの船』(1924)
- ヒルデブラント兄弟+J・ニコルズ『妖精王の冠』(1979)
カシュナーとウルフの作品はWorld Fantasy AwardのBest Novelを取っている。この賞は『海辺のカフカ』とか『アースシーの風』といった有名作も取っている。
昔読んだファンタジーの大半は古本屋に売ってしまったのだが、少しだけ手元に残してあった中のナンシー・スプリンガーの「アイルの書シリーズ(Book of Isle: 自分なら「島の書」と訳すかもしれない)」の4巻と5巻を資料として久しぶりに読んでみた。
4巻は「黒い獣 (The Black Beast)」(1982)
5巻は「金の鳥 (The Golden Swan) 」(1983)
このシリーズは「島 (Isle)」と呼ばれる、アイルランド島をモデルにした島が主な舞台で、全5巻で完結。どの巻も二人の少年が一緒に旅をし、片方が王位を得て、もう片方が旅に出るところで終わるという構造になっている。
1巻では島の神々の最後の生き残りの少年ベヴァンと、豪族の息子クイン。王位を継承したのはクイン。
2巻は東から来た異教徒と島の王族の政略結婚で生まれた少年ハルと、クインの子孫アラン。王位は共同統治という形で二人のものになるけれど、ハルは3巻で旅に出てしまう。
3巻はアランの息子トレヴィンと、魔術師エムリストあるいは孤児のグウェルン。王位を継承したのはトレヴィン。
4巻のみ舞台は「島」ではなく、東の大陸のどこかにある「谷」となり、即位20年目で女神への生贄として殺されることになっている王家の二人の王子、ティレルとフレインが放浪の旅を経て、この呪いを終わらせるまでが描かれる。王位はティレルが継承し、フレインは西へと旅立つ。
そして5巻で「島」に辿り着いたフレインがトレヴィンの息子デイルと出会い、そして最終巻だけはフレインもデイルも旅に出て終わる。
元々のモチーフがケルトの地母神信仰で、どの巻でも結局、少年たちは圧倒的な地母神の力の前に翻弄されるのだが、この最終巻の最後に勃発するラスボス戦は何と、地母神(の一形態)とティレル+フレインの戦いだ。
1巻「白い鹿(The White Hart, 1979)」のヒロインであるエリドからして、ピーチ姫のような「救出されるだけの姫」ではなく、まあ何というか、ファンタジーに出てくるお姫様としては相当に型破りなキャラであるし、先日書いたようにこの時期の英米の女性ファンタジーはフェミニズム運動を取り込んだ作品が多かったので、このシリーズのどこかで男VS女の決着はつける必要があったのかもしれない。
このラスボス戦の勝敗や結果は多義的であり、どう自分なりに解釈するか、どれだけ解釈の可能性の幅があるかを見極められるのか、読み手の勉強量も問われると思う。初読は高校生の時だったが、今あらためて読み返すと、著者スプリンガーが創作において大いに依拠したというユングの理論なども(訳者である井辻朱美が解説で指摘している通り)各所で見てとれるなど、何度も読み返すに足る品質を持つ作品であると実感する。
さて、ファンタジーというものが何なのかは人それぞれであろうが、コンピュータRPGのリプレイやノベライズや二次創作から発展した現代の日本の異世界ものにも、あるいはプレモダンの日本や中国を舞台にした(武侠オプション付き)怪異小説にも、ハリウッドで桁外れのカネを使って作られるファンタジー映像にも、「こういうもんだっけ?」感を拭い去れなかった自分である。が、井辻朱美が『金の鳥』の訳者後記で書いていた内容がまさに、そういうことですよねと思わせるものだったので、引用しておく。引用しておく。
ファンタジーを、読むという行為によってとおりぬけること、その結果わたしたちははじめとはちがった地点につれてゆかれます。そこでは空気の色も風のにおいも、たしかにどこかあたらしく、またなつかしくて、わたしたちはひとつの目覚めのようなものを感じます。(井辻朱美「訳者あとがき」ナンシー・スプリンガー『金の鳥』ハヤカワ文庫1985, P284)
昨晩、『黒い獣』を読了してから寝室に行ったら、一瞬吹いてきた風によってカーテンが動いたそれだけのことが、普段とは違う体験として感じられた。こういうのがファンタジーの真髄だと思うので、異世界転生でモテモテ無双も、こちらの世界のダウンタウンに現れた魔物たちとドッカンドッカンと魔法バトルも楽しいんだろうが、自分にとってのファンタジーはソレジャナイということを再確認出来た。めでたい。拙作は、世界が違って見えるという意味でのファンタジーの力についてのメタ・ファンタジーにはなっていると思う。
なお、上記のエリドのキャラクター造形は拙作のヒロインたちにかなり強い影響を与えている。東京カレンダーの綾ちゃんのような、おっさんのキモい妄想の結晶体のような女性キャラは断固書きたくないと思った時に真っ先に思い出したのが、『白い鹿』のエリドだった。具体的に彼女がどのように変形されて拙作に持ち込まれたのかは、内緒。
2020/2/21追記:『西の天蓋』のヒロインとして登場させた山賊の娘ブレイはエリドとは違う形でフェミニズムを反映させたキャラになっていることに、最近気づいた。出した当初から作者としては「付き合うも付き合わないもご自由に。好きにしたら?」ってスタンスでやらせていたのだが、イェビ=ジェミとブレイは終盤では作者が驚くほどの大恋愛をしている。
何故そうなったのかよくわからなかったが、森きいこに何故もっとラブシーンを盛り上げないのかと問われて、やっとわかった。
ヒロインのブレイはイェビ=ジェミ以外の人間とコミュニケーションするときは結構わかりやすく「女」を演じているけれども、小さい頃からお前は跡取娘だと教えられてきたので、何となくそれ以外の自分のあり方を模索している。
また、イェビ=ジェミはずーっとマッチョな世界で生きてきた「男の中の男」だけれども、他の傭兵とは持って生まれた能力が違い過ぎるので、無理に「男」として評価されることを追求する必要が無い。
だから二人旅をしている間はどちらも「女」や「男」の記号的な言葉使いや仕草を全く出さないようになっていて、その状態が心地良いと感じている。で、13章の中盤くらいで、それを許容してくれる相手はこの人だけだと気がついた。
二人のコミュニケーションが徹底的にアンチロマンスになっているのは、それぞれ「女っぽさ」「男っぽさ」を出さないことが、一番相手に好かれるふるまいだと直感しているからなのだ。