マーケティングとプロダクトデザインによって作られた小説の価値とは

有名ラノベ編集者が小説の表面的なUIしか見ていない(ように見える)場合があるらしいことを知って、色々と考えている。

日本の文芸創作の世界の大半が、いわゆる限界芸術的なものであることをあらためて実感した気がする。

マーケティングとプロダクトデザインの視点だけで小説を見ているとすれば、ものづくりのありようとしてはダイソーやしまむらのマーチャンダイジングに限りなく近い(ダメとは言っていない)。

また、編集者がファンタジー小説について検討するときに、読み手にとってのわかりやすさしか気にしないというのは、人文諸学を学ぶことを人生の中心に据えて30年生きてきた自分からすると、発想の振り切り具合が新鮮だった。え、そこからスタートするのって。しかもそこだけで終わるって。

一人の人間が30年間で学べる人文学など、人文学全体から見るとゼロに限りなく近いのだが、それでも無いと有るではかなり世界の見え方が違う。だが、そういうものを全て切り捨ててマーケティングの視点だけで文芸を語るという場も、あって良いはずだ(なにしろ勉強しなくても商売の経験だけで語れるから敷居が低い)。

カクヨムというウェブ小説投稿サイトの名前など、そういうことを念頭にして見てみると、よく出来ているなあと感心する。

書くことと、読むこと。

それだけで良いのだ。考えることも学ぶことも、ここには含まれていない。

こうした景色を眺めるだに、これからますます人文学を大学で学ぶことは難しくなるだろうし、真っ当な文学研究者(自分が習った先生方で言えば三井徹先生とか野谷文昭先生とか)のポストは、自分はあのテンプレファンタジーを書かせて何百万部売りましたというラノベ編集者に置き換えられていくのかもしれない。

だが、人文学の本質的価値はそういう日本国内の趨勢とは無関係なところにあるから、これからの日本で真っ当な人文学を学ぶ・身につける機会を手に出来る人間は、ある意味では選民的な存在になるだろう。特に文学や哲学は。

表象文化論が19世紀的な美学芸術学文学へのカウンターとして出てきたのは必然だったし、その成果は絶大なのも確かだが、分析対象が細分化を重ねるにつれて、銅鉄研究のようなものばかりになり、ジャーナリストにもそれっぽいものが書けるようになったのは、良かったのか悪かったのか(たぶん、悪かった)。

表象文化論系の道具立てで大衆文化を論じるものは今や溢れすぎているのだが、アラフィフにもなると、そういうものをいくら読んでも人が生きるための指針は得られないことが見えてくる。だから個人的にはもう表象文化論にさしたる魅力を感じていない。表象文化論は知的好奇心を満たしてくれるが、そこまでだ。しばしば私のところに(良いお給料をもらっているバリキャリビジネスパーソンたちから)持ち込まれる、生きることと死ぬことについての問いに向き合おうとするならば、人とは何かを考えた結果としての文学や哲学を読み、書き、考えるしかない。

マーケティングとプロダクトデザインによって作られた小説の中には商品として優れているものが少なからずあるだろうが、自分はそういうものを書いたり読んだりするには時間を失い過ぎている。