藤田直哉編著『地域アート:美学/制度/日本』(堀之内出版・2016)
内容と感想をまとめておきます。
編者は東工大の価値システム専攻(人社系のわりと規模が大きな専攻です。細川周平さんが専任だった頃に何度かゼミに参加したことがあります)で博士号を取った文芸評論家です。
内容は、編者が参加した対談や鼎談が半分くらいで、論考が編者のものを含めて4本。
全体の問題意識としては、日本各地で行政主導で開催されているアートフェスティバルやアートプロジェクト(これらを編者は地域アートと呼びます)が、1990年代にキュレーターのニコラ・ブリオーが提唱した「関係性の美学」の考え方を源流に持ちつつも、日本ローカルの事情に合わせてこれが変質した結果として、アートとして評価しづらい(現代アートとして市場価値が無い・批評の対象となりづらい)ものになっているのではないかというものがあり、これを出発点にして、色々な論者に自由に議論を展開してもらったというような本です。
論者は人文系の批評理論の人が大半で、実証研究をする人は一人も入っていません。
これはどういうことかというと、フェミニズム研究を例にしたらわかりやすいと思いますが、フェミニズム研究と一口に言っても、文学や映画をいかに読み解くかという方法論を使って、文学や映画の中で女性がどのような位置づけで扱われているのかを分析する人と、参与観察やインタビューや統計といった社会調査のデータを元にして、現実の社会の中で女性がどのような状況にあるのかを明らかにしようとする人が居ます。
この二つの流派を単純に二分すれば前者は文学研究者、後者は社会学者です。しかしながら、両者はお互いの研究を参照しあうことも多く、学会でご一緒することも多く、社会集団としては一つの大きな集団と考えられなくもない。ヤフーニュース個人で毎回変な記事をアップする武蔵大学の千田有紀は文学研究系の方法論ですが、名乗りは社会学者ですよね。フェミニズムではないですがフランス文学研究者の内田樹大先生も、世間からは社会学者と思われている(彼自身がそう名乗ったことは無いはずですが)。
で、この本に話を戻すと、そういう文学研究者っぽい方法論の人(この場合は美術批評ですが)と、唯一呼ばれた社会学者の北田暁大も理論社会学の人なので、どうしても理論や思想のお話ばかりになってしまっている。そして、この方面には非常に多いのですが、強引な論の展開や、個々の概念についての慎重な検討を経ての取り扱いに欠ける点が、私には非常に気になりました。
内田樹の文章を強引だと感じる方なら、わかってもらえるはずの「おいおいおい」というあれ。あれですよ。
そしてまた、批評理論系の人が集まるとだいたいこうなるんですが、余計な知識の披露合戦が延々続いて論が深まらない。殆どがノイズです。
そもそも、関係性の美学なんてのは、美術史的にはそんな大きなトピックではなく、そういう展開もあったよねー、で片付けて良い話なんですよ。日本の地域アートのコンセプト上の源流としてそれは確かにあるけれど、日本の都合に合わせて変質している以上、関係性の美学の今日的な意味をみんなで寄ってたかって深掘りすることにさほど大きな意義は無いと思います。だから実作者のインタビューで編者が関係性の美学について話を振っても、ほとんどスルーされている。
日本の地域アートの諸作品を美学の観点から解釈するならば、関係性の美学を援用した限界芸術ですよね、という論考を誰か一人が書けばそれでOKです。私が編者ならそうします。
この本で読む価値があるのは加治屋健司の論文「地域に展開する日本のアートプロジェクト:歴史的背景とグローバルな文脈」、そして現場の声としての会田誠のインタビューだけですね。あとは要らない。私の指導した学生でも東京芸大のGTSアートプロジェクトをフィールドワークで研究した卒論がありましたが(結論は「これ、イケてない」でしたw)、今そういう卒論を書く学生を指導するとしたら、上記2本以外は無理に読まなくても良いよと言っちゃいます。
むしろ必要だったのは、実証系の社会学者によるフィールドワークをベースとした論考でしょう。これをメジャーなアートフェス(越後妻有とか横トリとか瀬戸内あたり)と、地域外では誰も知らないようなマイナーなやつでそれぞれ1本ずつ発注。それから地域アートを支えるカネの流れを政府の地方創生戦略と絡めて分析する論考を経済学者に発注。ギャラリストから見た地域アートというテーマで小山登美夫あたりに1本。営業面を考えるなら北田暁大より木下斉に、ぶった斬り系の論考を1本お願いして、あとはキュレーターの覆面座談会とかやったらすんごい面白いと思いますがいかがでしょうか。
(文中敬称ほぼ略)