大野左紀子『アート・ヒステリー』(河出書房新社、2012)
著者は東京芸大を出て19年間、アート作家として活動した後に廃業宣言を行い、現在はライターや大学の非常勤講師などをしている人物だそうです。
内容は一言では説明しづらいものがあります。
第1章では現代の日本におけるアートのありようを、様々な角度から論じます。
第2章では明治から現代に至る日本の初等・中等教育における美術教育の変遷を論じています。
第3章では現代アートについて、やはり様々な角度から論じます。
全体を通して頻繁に出てくるのが、フロイトのエディプス・コンプレックス理論です。この図式に当てはまるものは、何であれ当てはめてみるという不思議な癖が著者にはあるようですが、最近フロイトとユングを読み込んでいるとあとがきにあるので、どうしてもフロイトで考えてしまうのだろうと想像します。
もう一つ、中盤以降で頻繁に出てくるのが諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ、2005)です。著者の考えでは、児童生徒に自由に描かせる・作らせるという方法論が主流であった日本の美術教育が、諏訪が「オレ様化」と呼ぶ、他者からの批判を極度に忌避する人間を生み出したということのようです。
さて、この本に対する私の評価ですが、とにかく読みづらいので、どなた様も無理に読む必要は無いかなというとことです。
読みづらさの理由は以下のようになります。
一つ目は、文体がしばしば中二病的なものになること。調べたところ、著者は筋金入りの「はてなダイアリー」ユーザーでした。「はてな」には人文系で特に捻くれた文体のユーザーが多いので、納得です。これは「はてな」由来のものであったかと。好きな人は好きなのでしょうが、万人向けではありません。
二つ目は、論点が全体を通して定まっていないことです。まえがきには、この本の目的として「アートがわからなくても当たり前、ということを解き明かす本」「アート(芸術)=普遍的に良いもの」という通念に取り憑いているものを落とす本」という二つが示されていますが、そのどちらかに絞った方が良かったと思います。一読の限りでは、どちらの目的も達成されていないと感じました。また、第2章は全体が不要でした。どうしても美術教育思想史を見る必要があったとしても、分量が多すぎです。
三つ目は、論の展開が一本道でないことです。話題がどんどん移り変わって行くのですが、その話題の移行に必然性が感じられません。何故この順番に、この話題を出すのかをきちんと考えないまま、思いつくままに書き進めているように思えます。
四つ目は、色々な場所で論を進めるために援用している著作群それぞれについて、その著作の当該分野内での位置づけを丁寧に検討し読者に提示するという工程を省いていることです。
これはきちんと論文指導を受けていない学生の卒論でよく見る失敗なのですが、自分の議論の中に、他の論者の主張を持ってくる場合には、その論者がその分野の中でどのような位置づけにあるのか、古典なのか新鋭なのか、主流なのか異端なのか、大きな研究分野ならばどのサブカテゴリーに属していて、他のサブカテゴリーでの議論との位置関係はどうなっているのか、などを理解した上で、読者に簡潔に提示する方が良いのです。特に分野を横断した議論を行う場合には、全体像を把握出来る読者は稀なのですから、資料批判を丁寧に行う必要があります。そのプロセスを通して、それらの引用が同じ一つの論の中に同居して矛盾が生じないものなのか、それぞれの分野内でどの程度受け入れられている論なのかといったことを、書き手自身も整理することが出来ます。
この本ではフロイト流精神分析学、美術教育法、教育社会学、美術史、社会心理学などかなり多岐に渡る分野を横断した議論を行っているので、いきなりナントカがこの本でこう書いていると言われて、あたかもその本の主張が議論の余地無く正しいかのような姿勢で論を進められると、ナンジャコリャとなってしまうのです。少なくとも研究者は。
この本の読みづらさの原因と私が考える理由は、以上です。
あとですね、この本に出てくる、筆者の教え子(と呼んで良いのだろうか。とにかく彼女が大学で指導した学生たち)についてのエピソードの全てが、「最近の学生は残念だ」型のものでして、この人は教育者という仕事があまり好きじゃないんじゃないのかな、と、ふと思いました。
教育という仕事が好きではないけれども、他に食い扶持を稼ぐ手段が無いので先生をやっている人は、本人も周囲も不幸なので、私の推測が当たっていないことを祈りつつ、この辺で筆を置きたいと思います。