パレスチナ問題について私が現代アートで皆さんを教育してあげましょう

現代アート世界の一部で盛り上がっているパレスチナブーム、今回の戦争が始まる前はまったくパレスチナだのガザだの取り上げていなかった人たちがここぞとばかりにガザをテーマにした作品を作り展覧会を企画し、まあそこまではわかるにしても、いきなり「パレスチナ問題について私が現代アートで皆さんを教育してあげましょう」ポジションからの言説を発信し始める。

いや、にわかパレスチナ支援も全然良いと思うんですが、にわかにしてはやたら「わかった顔」で声がでかいし、東日本大震災のときのにわか福島原発現代アートブームとその後の流れを思い出すと、これもまたと思っちゃいますね。いまパレスチナブームに乗っている日本の現代アーティストの何%が5年後、10年後もパレスチナ問題に取り組んでいるか。私の見積もりでは5%くらいかなと。東日本大震災現代アートブームもそんな程度だったし。

1990年代から2000年代にかけて、雑誌がバカ売れしていた時代の雑多情報誌の編集者って、毎号毎号新しいネタを決めてさも詳しいみたいな顔で特集記事つくらないといけないので、「職業的にわか玄人(風)論客」みたいな御仁がちょくちょくいらっしゃったんですよ。

今でも憶えてるのは、三菱iを初のリアシート下エンジン乗用車だって言ってた編集者(しかもCOTY委員)だな。いや、ホンダZとかフォルクスワーゲンEA266とか色々あるでしょうと。

旬の話題をサーフィンしながら作品を作っていくタイプのコンセプチュアル系現代アーティストにも似た傾向を感じますね。それがダメとは言いません。ただ、自分のやってることが話題サーファーであることの自覚くらいは持ったらどうだとは思います。自分のやってることは通りすがりの素人の仕事だって自覚は持とうぜってことです。

もっとはっきり言えば専門性を欠いているということです。

私は学生には「資料を読むときはまず書き手の専門性を精査して、素人の話題便乗本はそういうものとして扱え。信用して良いのは最新の研究までキャッチアップしている現役の専門家の最新の論文や本だ」と教えていました。

にわかが付け焼き刃の知識でポリティカルアートを作るのも素晴らしいことですが、あくまでもそういうものだということを自他ともに認識出来るようにしておいた方が、知的に誠実だよね、ということです(必ず知的に誠実であれとまでは言いませんが)。

研究者であれば思いつきの学会報告はなかなか怖くて出来ないものです。

「私はこの問題については不勉強なので教えていただきたいのですが」(意訳:「今からお前の素人同然の報告を公開処刑するので覚悟しなさい」)という前置きで、そのテーマを長年研究している人から恐怖の質問が飛んでくるとされています。

さて、外国ではどうか存じませんが本邦の現代アートの場合、そういうバチバチに当てに行くフルコンタクト系の相互批判はご法度のようにも見えます。とすると、にわかポリティカルアートがそのまま知名度と時流に乗って流通してしまうおそれもあり、それってすごく良いよね、優しい世界じゃん。

というのが私のささやかな感想。

何であなたが突然パレスチナの話始めるのと突っ込まれてブチ切れている有名作家さんのツイッターを見かけて、そんなことを考えました。