純文学と日本語現代アートの相似

私もう確信してるんですけど日本の現代アートのほとんどは「純文学」です。

純文学も実は日本独特のジャンルで、明治大正昭和平成と4時代を経てガラパゴス化してきた、独自のコミュニティと美意識とルールがあるのですが(そして概ね輸出出来ない)、それが現代アート領域にピボットしている。

若い人たちがインディペンデントキュレーターを名乗って日本語世界だけでアングライベントみたいなのを展開しているのも、純文学の同人活動が現代アート領域に応用されたと考えると非常にわかりやすいです。

極めて狭い範囲に密集したゲートキーパー役の編集者やギャラリストやキュレーターや評論家と、そういう人たちと密着した古株のドメスティックブランド作家たちが中央を寡占していて、その周辺や地方にカネにならないインディーズが漂っている構造とか。

ビジネスと英語と外国の動きには基本、近づかないのもそっくり。

森美術館とか都現美とかが呼んでくる外国作家の個展にはみんな駆けつけるあれは、外国文学のベストセラー作家(カズオ・イシグロみたいな)の翻訳書はとりあえず読んでおくのと同じ現象。

原著は読まない、あるいは読めな(略

ダメとは言ってないです。近代日本文化の一つの形なので。

中には本当に実力があって外国からお呼びがかかる人もいるわけですし。

ただ、「あの世界」がどうも肌に合わない人はどんどん英語世界に出てきましょうとは言いたいです。文学と違ってアートに求められる文章量は大したことがない。せいぜい1回のアプライで1000wordsも書けば十分。日本語ネイティブが英語の文学新人賞に応募するハードルとは比べ物にならないくらい低い。

現代アートで外国に出ていきたい方、ご相談ください。