現代アートはパンクロックに似ているのだ。

乱暴な喩えだが、現代アートはパンクロックやギャングスタ・ラップに意味の構造が似ている。ある社会で当たり前とされていることを、それは本当に当たり前なのですかと問いを投げかけるという部分で。

静水面にわざわざ石を投げ込んで波紋を作るのが現代アートの基本なのだから、これをクラシック音楽のような古典アートと同じように扱うのがそもそも間違っている。現代アートは同時代の危険物なのだよ。取り扱い注意だ。取り扱いに注意しなくても良い現代アートなど大した作品ではないと断定しても良いくらいだ。

だが、パンクロッカーやラッパーが法を無視する人々と必ずしも言えないように、現代アート作家も多くは法を無視する人々ではない。エッジの立った作家の作品には必ず刃が付けられているが、もちろんこれは比喩であって銃刀法に本当に違反するような刃ではない。表現の刃だ(荒木経惟のようにモデルの人権を平気で踏みにじるような作家もいるにはいるが、古典アートの巨匠ジェームス・レヴァインもセクハラ疑惑でメトロポリタン歌劇場をクビになったからmetoo事案は現代アートだけの話ではない)。

さて、ヤノベケンジがサンチャイルドを福島市に寄贈したとき、設置場所は福島市に任せたとされている。これはパンクロッカーのコンサートをどこで開催するかという問題に似ている。青少年向け施設の前でパンクロックのコンサートを市が主催するのであれば、相応の地ならしは必要だ。

逆に、ここに決まりましたと福島市から言われたら、普通は市の責任で地ならしや調整は終わっていると思うだろう。実際にはそれが甘かったわけだが。

こうした構造を捨象して、ヤノベケンジやサンチャイルドという作品を「福島をわかっていない」と非難するのは安易であると思う。同じ作品の10分の1サイズのものは福島県立美術館のコレクションに入っていて常設展示されていてそっちにはクレームを付ける人は居ないのだから、問題は設置場所の根回しと調整不足だ。

だから落ち度があったのは福島市だ。

実際、現代アート作家としてのヤノベケンジは(意図したものではないにせよ)炎上さえも勲章にしかならないわけだし。

一方で、ここで自分が整理したような現代アートの枠組みを知らない(知ろうともしない)まま、現代アートのエッジの立った表現をして「アート無罪と思っているのか」と非難し、炎上さえ勲章になってしまうような業界構造をして、だから現代アートは嫌いだ、という声も多い。

それはそれで良い。それは「自分はパンクロックが嫌いだ」、という言明とあまり変わらない。パンクロッカーも過激な活動が勲章になる商売だ。

だが一方で、見る人を不快にさせ、あるいはザワザワさせる作品が時には何億円もの値段で取引されているのが現代アートの世界であるという事実は変わらない。それは何故か。

世界には不快なものやザワザワさせられるものを、それでも時々は見てみたいという人、大枚を叩いてでもそれを所有したいという人が沢山いるということ。これが事実だ。

そしてまた上は何億円から下はタダでも要らないと言われるものまで、作品の人気に凄まじい格差があるのも事実だ。

そうした価格ランキングの中で、ヤノベケンジは日本人としては健闘している作家であるというのも事実だ(ちなみに井上リサの作品にいくらの値段がついているのかは知らない。オークションで取引されている気配は無い)。

田中武の例の作品も高橋コレクションに入っているんだから、現代アートの世界ではかなりの評価ということが事実としてある。

これらの事実は個人の好き嫌いや快不快とは無関係に、自由市場での取引の結果として厳然と存在している。その事実に向き合う必要も無いのだが、事実に背を向けたとしてそれが消えるわけではない。ツイッターで気に食わないアカウントをブロックするのとは話が違う。

どれだけツイッターで現代アート嫌いだとかアート無罪かよとか呟いたところで、世界の自由主義市場が現代アートを商品として成立させ、売り買いし、展示しているという事実にはかすり傷も付けられない。

本当に現代アートを何とかしたいなら、敵をよく知り、何が有効なのかを研究しなければいけない。優れた現代アート作家なら、今回のサンチャイルド炎上事件そのものをメタレベルから批評する作品を作ることが出来るだろう。現代アートの仕組みについて注意深く学べば、サンチャイルド炎上事件から多くの人が合意出来る教訓を引き出し、条例や住民協定のような形で社会に実装することも可能だろう。

それを怠っているのであれば、取り扱い注意の作品を根回し無しに青少年向け施設のエントランスに置いて炎上させた福島市長と、知的誠実さという点で五十歩百歩である。

あとな、荒木経惟のときもだけどこういう現代アートが社会的に炎上しているときに何で現代アートでメシ食ってるキュレーターや批評家は我関せずを決め込んでるんだ? こういう時こそ専門家たちが何か言うべきなんじゃないのか?