この論争、そろそろ局地戦は個々に完了していて、最後に残っているのはこちらの大きな論点のみかと思います。すなわち、問題の動画において水原希子さんは「日本人ではないから許して」と言ったのか、言っていないのか。
先に結論を書いておくと、水原希子さんはそのように言った、とも言える。そのように私は考えます。
では、何故そう考えるのかを出来るだけ簡潔に示してみます。ここで使うのは美学・社会学・文学という、大まかに言えば人文系に分類される研究領域において、方法論として好き嫌いや得手不得手はあれ、アリかナシかと言われればアリなんじゃないの、程度には一般的な理論群です。
まず一次資料(水原さんがアップした動画)において、水原さんが「自分は日本人ではない」と言っていないこと、「だから許してくれ」とも言っていないことは確実です。西村博之氏らはこの立場に立っています。
しかしながら、20世紀後半、1960年代にガダマーという哲学者が解釈学という研究領域において、それまで支配的だった「作品の作者の意図は正しく理解しうる」という考え方を深め過ぎた結果、「作品の意味はその都度、生み出される」という理論に到達してしまいます。また社会学系の研究でも、オーディエンスが作者の意図とは別の意味付けを行って作品を流用・消費していることが明らかになってきまして、1970年代くらいから後の作品研究やポピュラー文化研究では、
「作者の意図はどうあれ、ディストリビューターやオーディエンスが別の解釈を行ったのであれば、それはそれで一つの作品解釈であり、否定することは出来ない。」
そういう考え方が支配的になります。21世紀の現在においては、もはや常識というレベルでしょうね。
ということは。はい。水原さんは「日本人じゃないから許して」とあの動画で言っていると思う人にとっては、それはその人なりの解釈であり、それを無効化することは誰にも出来ません。水原さん自身でも出来ません。
もちろん、研究の方法論として、作者の意図に可能な限り迫ろうとするやり方は今でもアリアリですよ。でも、作者の意図とは別に、ある作品が社会においてどのような意味付けをされて流通し、消費されているのかを問う研究も山ほどあります。後者の方法論を採用するならば、水原さんはあの動画で「日本人でないから許して」と言った、とも言える。
ただし、それが水原さんの真意であったとまでは言えません。絶対に。
まとめます。
1) 水原さんは動画において「自分は日本人ではない」とも「だから許して」とも言っていない。
2) しかし、水原さんがそう主張したと解釈する人々が存在することは否定出来ない。
3) そのような解釈が存在し、その解釈が実際に社会において一定の影響力を発揮していることも明らかである。
4) とはいえ、水原さんの真意までもがそうであったとの主張は、不可能である。
では、こうした考え方からどのように建設的な論を導き出せるかということになるのですが、まず我々は、水原さんの真意はどうあれ、一部の人々が「水原さんは日本人ではないから許してと言った」と受け取ったということを認める必要がある。同調する必要はありませんが。
一方で、そのように受け取った人も、そうした自分の解釈を唯一無二のものとして、全てのオーディエンスがそのように受け取ったはずだ、あるいは、受け取るべきだ、と主張することは諦めるべきです。
言った言わないの水掛け論のループエンドなので。
そのように聞きたかった人にはそう聞こえる。特に水原希子という存在やその名前が象徴する何かに特別な思いがある方は、少なからずその影響を受けた解釈を行うでしょう(解釈は歴史性の影響を受ける、と解釈学では言います)。
谷本真由美さんの解釈における水原希子さんはファッション左翼でDQNで非コスモポリタンである。それは一貫した筋が通っていますから、一定の説得力はあります。そう考える人にはそう考える自由があるので、尊重するしかないです。
ただし実際のオードリー・希子・ダニエルさんがファッション左翼でDQNで非コスモポリタンである、という命題が真であるかどうかは、それとは全く別問題。
水原さんご自身については、今も色々と経験して学ばれておられるはずなので、この論争も成長の糧にしていただいたら、様々な立場で論争に参加した方々の時間も報われるというものでしょう。(個人的には彼女には是非、日本国籍をお取り頂いて、日本国家の発展と繁栄に参画していただきたいと思っております。優秀な若者、稼げる若者が日本には足りません。)
それ以外の方についても、例えば横浜トリエンナーレで実際にアイ・ウェイウェイ作品を見てみるとか、サントリープレミアムモルツを飲んでみるとか、色々と発展的な楽しみ方があるのではないでしょうか。
付記:水原さんが動画で自身の出生地、両親の国籍を明示したことは確かで、そこからは対偶として「自分は日本人ではない」という命題を導くことも可能と言えば可能です。厳密には彼女が2016年の時点で帰化を完了していて、単にそれを口にしなかった可能性も残るのですが。ともかく、彼女が「日本人ではない」と言ったと解釈する人は、この対偶を重視しているのだと思います。
しかしながら、その解釈を採用する場合、「では何故、水原さんが対偶という遠回しなやり方を採用したのか」も検討する必要があるでしょう。水原さんが「自分は日本人ではないので許して欲しい」と中国の方々に伝えたくて動画を作ったのなら、対偶のように解釈が二分するような言い方をする必要があるのでしょうか。ストレートにそう言えば良いのではないか、ということになり、更にそこを説明する補足の理論を立論して説明する必要が発生します。
一般に、何かを説明する際には少ない理屈で最後まで行ける方が優れた説明とされています(オッカムの剃刀)が・・・。
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これは教え子がオックスフォード大に遊びに行った時に撮ってきた画像。彼は今は東大の修士課程です。