広告代理店出身の人が書いた、イエス・キリストと堀江貴文を「天才」の例として挙げているブログを読んでしまった。
堀江が天才かどうかは論じるまでもないとして、イエスを天才と呼びうるのかについても、キリスト教における「イエス・キリスト」のことなのか、歴史上の人物としての「ナザレのイエス」のことなのかすらはっきりしない論であるし、前者を天才と言っているのは、例えば桐生戦兎を天才と言うのとさして変わらないレベルの論である。
それに、キリスト教の創始者としての「イエス・キリスト」を「天才」と呼ぶのは、キリスト教の神学理論的にあまり好ましくない気もする。Geniusという概念の語源がそもそもユダヤ教やキリスト教とは全く別の系統の宗教に由来するものであるし、Genius概念がキリスト教世界に受容された後であっても、イエス・キリストは三位一体の考え方において「子なる神」という位格であるから、天才などという軽いものとは比べること自体、畏れ多い存在であると思われる。
例えば16世紀のスペインでそんなことを書いたら異端審問所に呼ばれるんじゃないだろうか。
また、天才の定義についても、どの学問分野のどの系統の天才論を踏まえているのかを見なければと思うのだが、残念なことにそういう丁寧な議論は一切無い。
久しぶりに蓋の外れたマンホールを踏みかけたと思うと同時に、これでなければバズれないんだなと痛感する。そこが私の限界である。
学的言説を一切無視した俗流マネジメント論を、有名企業出身を売りにしたコンサルタントがnoteあたりに書いて、それを同じような経歴のドメスティックインターネットプチセレブたちがわーっとお神輿みたいに(輪番で)持ち上げて、そういうものが順番に日本のマネジメント言説でもてはやされていくという現象と、その輪番バズプロセスの中でアメリカのMBAを取ってきた人という経歴がもっともらしいデコレーションとして機能している問題について、経営学者やコミュニケーション学者の見解を問いたくなることがたまにある。