表題の件、炎上というにはあまりにも火力が弱くて、誇大広告になってしまうかもしれないが、とにかく何らかの騒ぎはあって、ブログのPVも一瞬は伸びた。
頂いた反応は、ほぼ相互フォローの方を介して拝読したような形で、ほんの一部にしか目を通していないのだが、それらへの感想などをまとめておきたい。
1) 社会学には自浄作用が無いのかという声について
巨大かつ無数に細分化された研究分野なので、例えばどこかのB2C企業の広告が炎上して苦情が殺到して、社長が謝罪会見とか公式ウェブサイトに謝罪文が出るとかいった展開を期待されている向きには気の毒だが、そういったことは永遠に実現しないだろう。
例えて言うならば、キッズラインがコンプライアンス違反をしていたからといってベビーシッター仲介業界の競合他社がキッズラインに文句を言わないのと同じだ。それは監督官庁の仕事である。社会学には、日本社会学会のような大きな学会はあるが、それは研究のための集まりに過ぎず、会員に対してすらほとんど何の強制力も無い。まして、一般向けメディアやSNSで多少過激なことを書いた程度では「それ何か問題なの?」くらいの感覚だろう。
ツイッターにも書いたが研究者は個人商店の経営者のようなものだ。商工会や商店会が特定の店の経営方針を指導することなど出来ない。
私は「こういう過激なことは書かないほうが良いと思う」と事あるごとに書いてきたが、これまでほとんど誰にも知られていなかったわけだから、私程度のフォロワー数では何のカウンターにもならないのだ。
また、どこかの社会学者が明らかな嘘をどこかの論文に書いているというのなら、その箇所とそれが嘘であるという揺るがぬ証拠を準備して、彼女/彼の勤務先に知らせてみると良いだろう。それが一番効果的だ。
2) 東大社会学部は伊勢丹新宿本店という喩えは権威主義だろうという批判について
その通り、権威主義である。
建前で言えばどんな研究者の主張、発言もその肩書きや実績ではなく、毎回の主張発言そのものの中身を吟味すべきということになるが、少なくとも分野の外の人々は所属組織や経歴によるスクリーニングをするであろうし、その権威の大きさがSNSでの拡散力に当然繋がる。いくら「ある種のフェミニズムにとっての正義」に対抗しうる「表現の自由をより強く尊重する立場の正義」を語ったところで、語っている人間の権威に大きな差があれば、声の大きさでまず敵わない。
「ある種のフェミニズムにとっての正義」を掲げて言論活動をしている人々にとっては、自身の正義は明らかなのだから、わざわざ論戦に応じて相手を目立たせるよりも、声の大きさで問答無用に踏み潰せる相手ならその戦略を選ぶだろう。マイノリティ運動は(というか、マイノリティ運動に限らずこの世の大半は)綺麗事だけでは動いていない。
権威主義は間違いなくそこにある。だから、ある種の社会学をも栄養源とした社会運動に対抗しようとするとき、権威主義の存在を計算に入れて動いた方が良いだろう。そういう話を私はしている。
また、研究者の皆さんが本当に自分の中や周囲で権威主義を見たことも聞いたことも実践したことも一切無いといえるのか、私はかなり疑っている。
研究者の友人知人からは、表向きの建前以外の部分でその手のものが動いているという事例を色々と聞くのだが、あれは全て彼・彼女らの虚言なのだろうか?
私は研究者とビジネスパーソン、どちらの世界もそこそこ知っているが、どちらの世界の人間が上等ということは全く無くて、言葉を飾らずに言えば研究者の世界も俗っぽさではビジネスと何も変わらないと感じている。
3) 社会学はいらない学問という主張について
実は社会学と標榜はしていなくても、マーケティングやブランディングやHRの実務の中には社会学の知見や手法は大量に入っている。博報堂、電通、ADKといった大手広告代理店のブランディングやマーケティング部門のリサーチは社会調査とその結果の解釈そのものだ。メーカーのマーケティング部門も然り。
教え子の中にはエスノメソドロジーから発展させたHRテック(エスノメソドロジーを使った会話分析データを自社開発のAIに放り込んで、社員育成のためのプログラムの立案と実装をするサービス)のコンサルティングファームでコンサルタントをしている連中もいるし、デプスインタビューやグループインタビューのマーケティング専門ファームから大手メーカーのマーケティングに引き抜かれたのもいる。私のゼミで観光社会学を学んだ後に観光業界の大手に入社して、ゼミでの学びを活かしている教え子もいる。
彼女(女性だ)についてはこんなエピソードがあった。
私のゼミがフィールドワーク実習の場とした伊豆大島で、観光開発の最前線で頑張っている人がいる。彼女が直接お会いしたかどうかは定かではないが、多分お会いしているはずだ。
それから7年ほど後。その人物は彼女が勤務する会社のサービスを利用し、こんな素晴らしい観光商品は初めて見たという感激をツイートした。
その観光商品は、まさに彼女が開発に関わったものだった。社会学の学びはこのようにしてビジネスに活かされ、そしてかつて学ばせて頂いた場へと還っていったのだ。
色々言われているフェミニズム社会学も、例えば女性向け商品の開発では(少なくとも私は)そちらの知見をきちんと参照して進めている。
フェムテック分野もフェミニズム研究無しには存在しなかっただろう。
一橋大アウティング事件が起こった時には企業法務をやっている弁護士からLGBTQについて教えて欲しいと相談があった。その時は最終的にLGBT当事者団体に紹介したが、この成果は既に企業法務の論文として公刊されている。そういうところでは実はジェンダー研究の社会学と法学の協働みたいなこともやっている。
大学に勤務して研究をしている方々もあまりこういった世界をご存じ無いのかもしれないが、既に社会学は現代のビジネスと切り離せないものとして存在している。だから社会学を教えておられる先生方は自信を持って、社会学は大学を出てから必ず役に立つと学生さんたちに伝えて欲しい。
4) 社会学者は特定の価値規範を押し広げるために研究をしているのではないかという指摘について
それ自体は何の問題も無いと私は思う。思想の自由、内心の自由、言論の自由、学問の自由である。ただし論文や学術書を書く時に、あるいはどこかから査読が回ってきた時に、自分が正しいと思う価値規範を押し広げるために自説に不利なものを無視したり潰しにかかったりするようなことは、して欲しくないとも思う。
要は、学問の場では公正にやりましょう、誰も見ていなくても、ということだ。
だが、そうした行動規範から逸脱する社会学者がゼロだとは私には言い切れない。どんな分野、どんな業種、どんな世界にもチートをする者はいる。根絶は出来ない。きっといるだろう。再度の話になるが、研究者は聖人君子ではないことの方が遥かに多い。やる奴はやるでしょう。
とはいえ、良くしたもので、個々のチート行為の効力はいつかは消えてしまう。他の研究者が自説に不利なことを書くのを妨害し続けることは無理だ。長い目で見れば、チートは拭い去られる。そしてまた次のチートがどこかでこっそり埋め込まれ、しかしそれもまたいつか無効化される。
そういう意味で私は社会学者たちのコミュニティを信頼している。
5) その他、雑感
今回、私の名を挙げて色々な悪口を書いておられる方が若干名、いらっしゃるようなのだが(総会屋、という表現があったと友人から教えられた。興味深い表現である。人生経験として試してみたい誘惑にも駆られるが、そもそも私は株をやっていない。またたった今、東京地検の検事をやっている後輩と金沢市内のインド料理屋についての意見交換をしたばかりでもあり、彼を失望させないためにも犯罪行為には手を出したくない)、私が感じたのは、この社会の分断の深さである。
コンサルタントという仕事柄、私のお付き合いがあるのは企業経営者層や士業、そして研究者が多い。そういう方々にとっては、誰だかわからない匿名ツイッターアカウントの書く悪口というのは、存在していないに等しい。では、私のツイートの下に数字として表示されているリプライ数やリツイート数の中にある(であろう)諸々の感情は、どんな意味、どんな価値を持ちうるのだろうか。
おそらくそうした反応の中には、私とコミュニケーションを深めて相互理解を進めたいというものも一定数あっただろう。
今回、ノイズの割合の多さを考慮して、反応をほぼ拝読しないという対応を取ってしまった。これにより、本当に私と建設的な意見交換をしたいと考えておられた方々と知り合える機会を逸したことだけは、とても残念だ。(フェイスブックのコメント欄にでもマナーを守って書き込んで頂ければ、出来る範囲で誠実にお返事致します)
一方で、新しくフォローして頂いた方も50人ほどおられるし、その方々の中には興味深いプロフィールの方も沢山おられたので、相互フォローさせていただいた。そうした出会いを得られたという点で、今回、社会学を巡る議論に参加したことは、個人的にはかなりのプラスであった。感謝致します。
追記:私についての悪口は、基本的には歓迎なのだが(悪名は無名に勝る)、嘘は良い方も悪い方も書かないことをお薦めしておく。加藤は本当はハゲていないというのは、無論、○い嘘である。書いてはいけない。