乱立される地域文学賞は誰のためになっているのか

角川武蔵野文学賞を見ると、せっかく書いて応募してもほとんど書き手にメリットが無い感じ。読んでくれるのは友人知人の一部だけだし、大賞でもお金がもらえるわけでもない。地域文学賞って極めてローコストで「地域振興」っぽいことをやっている雰囲気が出せるから、開催する側にとっては便利だけど。
 
正直、書き手のことは使い捨てとすら考えていない、マインクラフトの村人みたいな扱いだよな。せめて電撃やファンノベみたいにそこそこの賞金が出るとかネームバリューが手に入るくらいのインセンティブが無いと。
 
で、面白いもんで公務員や大学の専任教員ってこの手のインセンティブ設計が全く出来ない人が多いように思う。大企業の社員もそうか。
 
考えてみれば当たり前で、この類の人種は組織内でカオが立ったかどうかで評価されるから、イベント自体はヘボヘボでも「大成功しました」って文書書けば成功したことになる。
 
広告塔代わりに1.5流や2流の書き手だの編集者だのを呼んできてイベントをやるのも、文書にしたときの「映え」になるからなのだが、正直、そんなカネがあったら全部賞金に回した方が人は集まると思っている。

クリエイターファーストってのはそういうものだ。
 

報告書映え要因として呼ばれるその種の人間がさして面白い話をするわけでもなく、だいたいは600円出して評判の良い新書を買って読む方が勉強になる。それにそうやって呼ばれたゲストたちはただの小遣い稼ぎだから、熱量も低い。コミットメントなんか無いわけだ。どうしようもない。

今の日本語環境で文芸は徹底的にマーケティングして当てに行くか、市場は無視して自分の書きたいものを書くか、正解はこの両極端にしかないと個人的には考えている。
 
自分のためのカネ稼ぎに徹するか、自分の心のために書くか。どちらにしろ自分だけが宛先だ。
 
地域振興業界では税金や関係者の労力ややる気を食い物にする悪徳コンサルと悪徳公務員が跋扈しているが、地域文学イベントなんてのもその類のものだと考えて良い。食い物にされたくなければ近寄らないのが吉だ。