毎日数件、悲運非業の死を迎えた人物の話題がネットに流されるのですが、そしてそういう話題は当然PVも稼げることは確かなのでしょうが、そういう話題があまり多いと、我々皆いずれ悲運非業の死を迎えるような気分になってくるし、実際にそんなものばかり読んでいると健康にもあまり良くないので、ほどほどにせんとなあと思います。
そういえば、こないだターミナルケア専門医の新城拓也くんが読売に書いていたけれども、明日にも亡くなるかもしれないというような方も、その日その日をいかに生きるかを考えて過ごしておられるそうで、そこが死に向かう最終直線であるとしても、それは「失われてゆく生」ではなく「生」そのものなんだなあと感じ入った次第。
ヒットポイントが半減したとしても、その生がヒットポイントフルチャージ状態の生に対して客観的に価値が劣るものとは言えないよね。
似たような構図で、障害の当事者がよくおっしゃるのが、君たち障害者の生を見て癒やされてるんじゃないぞコラということ。障害者の生は健常者の癒やしのためにあるわけじゃないぞと。わかってるか24時間テレビ。それと同じようなことが言えないだろうか。悲運非業の死は、我々に憐れまれるためにあるわけではないはず。
そりゃあ古来、人間は死の舞踏とか小野小町九相図とか十三日の金曜日とかの作品で、死を想っては来ましたけれども、ネット時代になってPVはカネになるという図式が生まれて、悲運非業コンテンツをリコメンドで出して消費させるようなメディア状況は生まれてないだろうか。実際には「色々ある」はずの一人ひとりの生と死を、悲運非業コンテンツとして消費されやすい形に整えてせっせと流したりしていないだろうか。
悲運非業の死を徒に語り、あるいはメディアに乗せ、毎日新しい悲運非業の死を、自他の感情を揺り動かす為に消費するという姿勢は、その当事者の生に対する敬意をどれほど持っているものだろうか。
ウェブブラウザにポルノをフィルタリングするセーフサーチ機能が付いたように、悲運非業コンテンツもフィルタリングするプラグインがあっても良いんじゃなかろうか。
諸君、私はリア充コンテンツが好きだ。結婚式とか旅行とかデートとか肉とかラーメンとかビールとかシカゴピザ(New!)とか。
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