水の都の物語(その壱:台所に清冽な水が湧き出す奇跡について)

 最近、東京の水の歴史を学んでいます。正直に申し上げて私、東京の水の歴史についても何も知らなかったですから。ホクレア号の物語を知るまで。面白いもんですね。全然関係ないところにポッと湧き出る伏流水みたいなもんでしょうか。

 さあて。ご存じかと思いますが、江戸時代からこの東京、当時は江戸と呼ばれていましたけれども、世界有数の巨大都市でした。人口およそ100万人。とはいっても、その市街地というのは、今で言えば山手線の内側と江東地域だけでしたから、区で言うと新宿・文京・中央・千代田・台東・江東・墨田くらい。そこに100万人が住んでいた。

 では、そんな江戸の町に暮らす人々は、どうやって水を調達していたのか。井戸水。もちろん井戸水は重要な水資源でした。しかし、それだけじゃ到底、この巨大都市の水受容は満たせない。雨水。もちろん雨水も溜めて使った。でも、この地方は季節によっては1ヶ月くらい雨が降らないこともある。雨水はさほど当てにならない。

 ではどうしたか。

 今と同じです。水道。水道を作って水を引いていましたのですよ。

 でも、江戸時代の水道ってどんなもんかイメージできますか? できませんよね。時代劇にも出てこないし。

 江戸の町の水道、私たちの想像を遙かに超える洗練されたものでした。水源は川の水です。主に多摩川ですね。多摩川から水路を掘って、江戸の町まで、つまり山手線の内側まではるばると水を運んできておりました。水路沿いには水番所と呼ばれる監視所が設けられて、水路を汚したり壊したりする者は厳しく罰せられました。市中に水を引き込むメインのルートは、現在の甲州街道です。すなわち高井戸宿から内藤新宿、さらに新宿通り沿いに四谷へ。ここで多摩川から引かれてきた水は江戸の市中に引き込まれます。

 江戸市中に引き込まれた水は、そこから細かく細かく分岐していきます。松や檜で作った樋がメインですが、要所要所には石の樋も用いられていました。しかも土中に埋設された水道です。これらが市中をあくまでも重力によってゆったりと流れ落ちていくわけですが、なんせ過密都市・江戸ですし、当時は舟運が物流の中心でしたから、市中には掘り割りが網の目のように張り巡らされている。江戸の水道はこれらを、ある時は立体交差で越え(懸け樋)、ある時はサイホンでやり過ごし(潜り樋)、そして次第次第に分岐分岐を繰り返していったのです。土中を流れる水の状態を確認する為の「水見枡」が所々に設けられ、また流下していく水の量を安定させる為の井戸もありました。溜め井戸に水をバッファーしていたんですね。

 こうして分岐に分岐を重ねた江戸の水道は、最後は町屋の台所に竹樋で引き込まれたり、長屋裏の共同井戸に引き込まれたりしていました。ちょっと大きな家なら、台所まで水が来ていたんですよ。いやまじで。

 もちろん、これだけのインフラを維持するのは大変でして、樋単位で組合を作り、維持費用を負担していました。また長屋裏の共同井戸は、毎年七夕の日に「井戸浚い」といって、井戸の水を抜いて溜まったゴミをさらい、御神酒を備えて塩で清める作業がありました。

 さらにさらに、使われた後の水は別ルートの下水に入って堀に流し込まれたのですが、リサイクルが徹底していたので(屎尿は全部肥料になったので下水には入らないし、塵芥も燃料や埋め立て材にした)、川に水が戻る頃にはそれなりに綺麗な水になっていたんです。

 すごいじゃないですか。文明開化前に、既にそんな先進的な上下水網があったんですよ。産業革命前にこれだけの巨大都市で各戸まで上水が引かれていたなんて、ちょっと胸が張れるんじゃないですか。そのまま残しておいたら、きっと世界遺産だったでしょうね。あはは。