水の都の物語3(改修、改修、また改修)

 前回、江戸市中の飲料水の大半を供給したのは多摩川だという話をしました。

 それでは、利根川や荒川は放置されたままだったのか。そんなことはありません。もともと江戸の東側の川は低湿地を流れていたわけですから、上手く川筋を制御して水を抜けば、そこは即、稲作に使えるんですよ。

 それで、家康の江戸入府後には、こちら方面の川筋は徹底的に改修を受けました。
まずは利根川の大改修です。もともと利根川は江戸湾に流れ込んでいたのですが、これを太平洋に付け替える大工事が行われました。具体的には、1621年に現在の茨城県古河市と埼玉県加須市のあたりで、利根川の水を一本東の渡良瀬川に流す川筋を開き(新川)、さらに渡良瀬川からもう一本東の常陸川にも川筋をつけます(赤堀川)。これで、利根川の本流は常陸川に入るようになりました。そのまま銚子まで一直線です。

1629年、今度は荒川の本流が変更されます。現在の埼玉県熊谷市・行田市のあたりで、本来は荒川の一本西の川だった入間川の支流に荒川本流を繋いでしまいます。これで荒川本流は入間川と合流して、現在の荒川の川筋に入ります。以前の荒川は元荒川と呼ばれて、荒川の一本東にズレました。
さらにこの時の大改修では、利根川の旧本流を、旧利根川本流と新しい利根川本流の間にあった広瀬川に導きます。最初に利根川本流だった川筋は古利根川となり、元荒川、綾瀬川と合流して最後に新しい荒川に流し込まれました。一方、広瀬川は流量が増え、また利根川筋と繋がることになり、これが江戸川となります。

もうわけわからんですな。

常陸川→利根川本流に
渡良瀬川→利根川に合流
広瀬川→利根川の水が入って江戸川に
利根川→水の大半を常陸川・広瀬川に流され、もとの川筋は古利根川に
荒川→水の大半を入間川に流され、元荒川に
入間川→荒川と合流して荒川に吸収合併

ともかく、こうして川筋を付け替え付け替えし、江戸の東側は農地化されていったのでした。その具体例としては・・・・・これは次回のお話といたしましょう。