前回は江戸市中の先進的な水道システムのご案内でした。
では、その水はもともとどこからやって来ていたのか?
江戸周辺を流れる大河は東から順に利根川(分流として江戸川、中川)、荒川、多摩川(下流の方では六郷川とも呼ばれる)とありましたが、基本的には飲み水の水源は多摩川でした。近世江戸の飲み水を支えたのは多摩川なのです。
四代将軍綱吉のころ(1653)、江戸幕府は増え続ける江戸市中の水需要に対応する為、庄右衛門、清右衛門の兄弟に6000両を与え、これで多摩川の水を江戸市中まで引くように命じました。彼らは6000両に加えて私財をさらに3000両拠出し、なんと半年強で羽村から四谷までの工事を完成させます。彼らはこの大功によって玉川の姓を賜り、帯刀も許されます。
この他に江戸市中に引き込まれた上水は5系統ありました。
神田上水 1590年代、徳川家康に従って三河から江戸に移り住んだ旗本、大久保家(「三河物語」のあの家です)の忠行が開削。井の頭池を水源に、善福寺池から発した善福寺川や妙生寺川など武蔵野を流れる中小河川を集めて小石川、駿河台方面の水需要をまかなう。
本所上水 1650年代末に開削。現在の越谷市瓦曽根溜井から荒川の水を引き込み、現在の足立区、葛飾区あたりの水需要に対応。1722年、吉宗の時代に廃止され農業用水となる(葛西用水)。
青山上水 1660年代初頭に開削。渋谷川の水を利用して青山、赤坂、麻布、芝へと流す。1722年に廃止され消滅。
三田上水 1660年代初頭に開削。玉川上水から代々木、渋谷、三田、上大崎、高輪、北品川と流す。1722年に廃止され農業用水に。維新後は恵比寿のエビスビール工場の水も供給。
千川上水 1690年代に開削。玉川上水から石神井、練馬、板橋、巣鴨と流して(現在の千川通り)、上野、浅草方面の水需要をまかなう。1722年に廃止され農業用水に。
おわかりのように、1722年、大規模な上水道の廃止が行われています。この理由には諸説ありますが、この時期に行われた江戸近郊の大開拓事業に伴う農業用水需要の増大に対応する為、敢えて市民の飲料水を犠牲にしたのではないかと言われています。
余談ですが、この時に行われた農業生産力の拡張が米余りを生んで、米に頼っていた武家の経済的没落を早めたという噂です。