上橋菜穂子『鹿の王』、今回はバッドエンドでは無かったけれど。

立教大学文学部史学科の大先輩の上橋菜穂子さん(9年上ですが博士課程まで在学しておられたので、1年くらいは在学期間が被っている。学部に入学されたときは古典古代史の高橋秀先生がお目当てだったようですが、ポリネシア人類学の青柳まちこ先生の研究室に入られたみたいですね。私はイギリス史の青木先生でした。ちなみに我々は博士号も同じ立教大学大学院文学研究科で取得しています)の『鹿の王』、読み終わりました。

 以前に読んだ『獣の奏者』が、私には「ここまでやるのは不必要」と思えるスーパーバッドエンドだったので、またやっちゃうのかなと思って最初に結末をチェックしましたが(基本です)、主人公が死ぬシーンは無いようだったので、改めて読み進めた次第です。

 

 さて『鹿の王』。舞台はとある架空の世界。大国ツオルに小国アカファが併呑され属州となった後、隣接する大国ムコニアとの国境地帯という位置づけになったエリアで物語は展開します。アカファには様々な少数民族が今も暮らしていますが、ツオルからの入植者も増えています。またアカファにはツオルとは異なる体系の医学が発達しています。

 主人公は二人。アカファの少数民族の戦士と、アカファの名家に生まれた医師です。

 ある時、アカファでツオル系の住民のみが重篤な症状に陥る伝染病が発生します。主人公たちはそれぞれのルートからこの伝染病の謎を追ううち、この伝染病がアカファの少数民族が仕掛けたバイオテロであることに気づく、という筋立てです。

 上橋さんは文化人類学者としてはオーストラリア先住民が専門なので、先住民と征服者の子孫が混住する地域の描写もリアリティに溢れています。また医師の監修を受けているそうで、医学的な描写も精密。技術面での考証でも、顕微鏡の発明や細菌の発見とそれ以外の技術発達の齟齬はさほど無いかな。この世界でも顕微鏡は発明されています。火薬もある。ただし火薬は手榴弾にしか使われていません。細菌は発見されていますし免疫の考え方も成立しています。ウイルスがようやく発見されたくらい。

 我々の世界では顕微鏡が1590年、細菌が1676年、ウイルスは1892年です。技術レベルを合わせるなら「鹿の王」世界でも戦争はボルトアクションライフルと機関銃とカノン砲や榴弾砲でやってるはずですが、そこはファンタジーということで、弓と槍が主力武器となっています。

 最終的には問題のバイオテロは少数民族だけでなくアカファの旧支配層たちが糸を引いていた国家的陰謀であることが明らかになるのですが、主人公たちが間一髪のところでこれを阻止。主人公その1(戦士)が負傷したまま姿を消すところで物語は終わります。ジョン・マクレーンなみにタフなおっさんなので、これがアメリカ作品なら5年後には『鹿の王II』の主人公として表舞台に帰ってくるはずですが・・・・

 作品全体に感じる問題点として、我々に馴染みの無い固有名詞(地名、民族名、動植物名)が乱れ飛ぶので話がアタマに入りづらいということを指摘出来ます。『指輪物語』みたいです。ウェブ上の書評(有力メディアに原稿料貰って書いている奴は別よ)でもこれはかなり指摘されてますね。こういう架空世界を書くのであれば、個々の固有名詞について、面倒でもその都度それなりの紙幅を割いて説明していった方が良いと思うし、それをやればシリーズ化して枝エピソードをいっぱい生やして2次元や2.5次元に展開して版権収入(以下略

 ・・・ということを考えないのが上橋さんの立派なところです。もう版権収入なら充分に持っておられるって? そうでしたね。
 『鹿の王』、面白い作品です。地図と用語集を作りながら読まれるとアタマに入りやすいのでお薦めです。