いよいよ「愛・地球博」が始まりました。テーマは「自然の叡智」。
さすがにそろそろ地球環境がズレ始めている事に気付き、持続可能な循環型社会を作れるものかどうか、考える、という意味のようです。
「20世紀には、新しい地球社会が生まれた。
信じられないほどの科学・技術の進歩・発展、高速移動手段の発達と情報・通信技術の進化が、人・モノ・情報の交流を地球規模で活性化させ、世界を一変させたのだ。
その結果、巨大化した人類の活動は、地球自然の許容量を超え、さまざまな危機を知らせるシグナルが点滅し始めている。
地球上の総ての「いのち」の持続可能な共生を、全地球的視野で追求することが、21世紀における地球社会の構成員総ての課題となった。
こ
の課題を解決するために、私たちは愛・地球博のテーマである“自然の叡智”を縦糸に、豊かな交流を横糸にして、地球社会を包む、柔らかく、豊かさと美しさにあふれる織物を織り上げようと思う。それは地球社会の新しく、美しい装いになるだろう。
「自然のもつすばらしい仕組みと、いのちの力」に感動し、世界各地での自然とのさまざまなつき合い方、知恵に学びながら、多彩な文化・文明の共存する地球社会を創ろうではないか。
国家・地域・企業・自立した市民・NPO/NGO、ボランティアなどの地球社会を支える人々の多様な営みと多彩な参加が、美しい織物を織り上げるだろう。
多様な交流が様々な摩擦を生むこともある。だからこそ、私たちは人類の持つ理性と愛と美しいものへの憧憬を、大切に育てたい。
人間らしい交流の原点とは、何だろう。
それは人が人と出会い、語り合い、理解し合い、尊敬し合い、愛し合うことにあるのではないか。
そのための交流の舞台“EXPO 2005 AICHI,JAPAN”をつくろうと思う。
私たちは世界の人々に呼びかける。
AICHIに集まろう。互いに見つめ合い、微笑み交わし、抱き合い、多彩な知恵の交流する世界を、全身で体験し、全感覚で楽しもう」
http://www.expo2005.or.jp/jp/A0/A1/A1.1/index.html
もともとは全く別のテーマで構想されていたものですが、会場となる「海上の森」の環境保全運動が盛り上がった結果、テーマが変更されたんでしたっけ。まあそのような経緯があったにせよ、テーマそのものはとても良いと思います。
ところで、おそらくこの日に合わせて来たんだと思いますが、今日の毎日新聞の夕刊にウルトラマンの記事が出ました。中でも興味深かったのは、「ウルトラQ」から「ウルトラセブン」までの初期の3作品の脚本の中心だったという金城哲夫さんのエピソードです。
金城さんは沖縄の出身で、ウルトラマンシリーズの脚本に関わった後に、沖縄海洋博前に仕事を辞めて沖縄に帰ったのだそうです。そして海洋博の開会式・閉会式の演出をされたのだとか。海洋博といえば、もちろんこのウェブログ的には、サタワル島からレッパン師の指揮で航海カヌー「チェチェメニ」号が伝統航海術を用いてやって来たイベントという事になりますね。
金城さんは、閉会式では沖縄中からサバニを集めて会場前の海に浮かべようと考えたのだそうです。
ところがこの計画は成功しませんでした。理由はわかりませんが、漁師さんたちの協力が得られなかったのだそうです。海洋博の会場工事の汚水が海を汚して漁師さんたちを苦しめていたそうですから、その影響もあったのかもしれません。
金城さんは失意のまま、閉会後1ヶ月経った頃に、酔って階段から転げ落ちて亡くなったそうです。享年37歳。
さて、今思い出してみると、ウルトラマンに退治されるのは、そのほとんどが地球侵略を企む異星人のような、ある意味わかりやすい方々ではなくて、なんだかよくわからないけどそこに現れた怪しい獣たちでした。もちろんバルタン星人さんのようなわかりやすい方もおられましたけどね。
あれから30年。考えてみると、私たち人間の多くは、自然をひたすら「やっつけて」きたのではないかと感じます。スペシウム光線で始末してしまえば、それで地球は住みやすくなるというような考えで、川と見ればコンクリート護岸で固め、海岸と見ればコンクリート護岸で固め、果ては遺伝子組み換え作物などという不気味なものまで作っておる今日このごろです。
ですけれども、そうやって30年間果てしなくやっつけてきたそれは、果たして本当にイケナイものだったんでしょうか。怪獣というのは、人間が正体を知り得ない謎の獣だからこそ怪しいわけですが、そもそも人間は全てを知っている必要があるのでしょうか。知らない相手を(異文化の民も含めて)「怪しい奴め!」とやっつけ続けて来た結果が今の世界なわけでね。もしかしたらウルトラマンがやっちゃった怪獣さんたちも、今から考えれば殺さずに共存する道があったかもしらん。
というよりも、人間が自然の全てを知りつくすというのは、原理上有り得ない。そういう「マクスウェルの魔物」のようなものに人間はなれないし、そういうものになってもあまり美味しい事は無い。何故ならば、全てを知りつくしていると、その全てを考慮して自分の行動を決めないといかんからです。しかし、自然というのは無限の巨大さを持っているので・・・・・わかりますね。無限の対象を考慮して計算する為の時間もまた無限である。
考えているうちに一生が終わっちまうっての。
それはもう複雑系の発見でわかっちゃってるんです。
私たちの先祖は、ある時期までこういったハマりを「自然を畏れる」というやり方で回避していました。自然には絶対に勝てない事をまず素直に認めて、自然に対してへりくだって生きる。自然に勝とうとしてあがくよりも、自然は永遠の謎として、謎のままにしておく。私たちだって円周率使った計算するのにπ使うじゃないですか。それですよそれ。
そして、そういう勝てない相手に関わる時には格段の注意を払う。緻密な計算の結果そうするんじゃなくて、最初から諦めて、つまり計算を省略してそうするわけです。結果的にはそれで大体間違っていなかったし、無駄に計算しないで済むぶん、時間をもっと有意義なものに使えました。
今私たちが自然の叡智に学ぶとしたら、そこだと思います。「自然を知りつくすことはできない」という事を先ず学ぶ。そして、そういう謎な存在であるものとどう付き合っていくべきかを考える。
ウルトラマンでさえ勝てなかった相手ですからね。負けるが勝ちよ。