世界がひっくり返る日(続)

 かつて人間は、世界の全てを知りつくしたならば、全ての過去を知る事が出来、また全ての未来を予測出来ると考えました(このような全ての情報を持った架空の存在を「ラプラスの悪魔」と呼びます)。また、このような世界観を還元論的物質主義reductive materialismと呼びます。世界はそれを構成する諸要素に還元可能であり、諸要素に還元して考えれば世界のことが分かるという世界観です。
 ところが、実際に未来を予測してみようとすると、その未来に関わる要素があまりにも多い場合、その未来が実現するよりも以前に予測の為の計算を終了出来ないことがわかってきたのです。まさに「その時にならないとわからない。」
 そして現代の科学は気づいてしまったのです。「個々の要素について全てわかっていても、それらの要素が集まった時に何が始まるのかは原理的に予想出来ない。」
 
 こうして私達の知らない所で、世界観がひそかにひっくり返っていたのです。コンピュータによって大量の計算が出来るようになりますと、量の違いが質の違いを生み出すという現象が次々に発見されるようになりました。この新しい世界観を非還元論的物質主義non-reductive materialismと呼びます。

 ところで世界史に名を残すような賢人は、こういう事も直観的に了解していたりします。エマニュエル・カントは『判断力批判』の中で、常軌を逸した莫大な量のものは人間の理解を超えるので、片手で数えられるようなものとは別ジャンルとなると言いました。煎餅5枚は人間の理解の範疇ですが、煎餅5兆枚は人間の理解を超えます。この時、この「常軌を逸したバカでかさ」の質感を人間は「崇高」と呼ぶ。カントはそう言いました。私は見たことがありませんが、5兆枚の煎餅はきっと崇高な雰囲気を漂わせているはずです。

 さて話を戻しましょう。今、世界は環境の危機にあり、また宗教対立や民族対立が血で血を洗う阿鼻叫喚を現出しています。しかしこういう事をいつまでも続けていると、ゲームの場である地球そのものが壊れてしまいかねません。ですが、まだ手立てはあるはずです。無駄遣いしないこと。モノを大切にすること。お互い譲り合うこと。アイドリングした車の中で昼寝しないこと。真夏にスーツを着たりネクタイを締めないこと。そういった小さな実践を通して私達それぞれの生き方が変わっていきます。そしてある瞬間、きっと世界はひっくり返ります。
 ナイノアがカントのように賢者の直観で未来を見通しているのかどうかはわかりません。「その時にならないとわからない。」のですから。ですが、希望はあるし、どっちに行けば良いのかもわかっている。未来は私達一人一人が作るのです。