『内なる他者のフォークロア』

赤坂憲雄『内なる他者のフォークロア』を読み始めました。彼は民俗学の分野で異人・境界論から東北をフィールドとした地域研究に展開した人ですが、東北から活動の場をもう一度、東京に戻す(今年度から学習院大教授)時期に書かれたこの本の差別論に、非常に惹かれます。

おそらく3.11以降噴出した、反原発カルトによる目を背けたくなるような原発被災者・関係者差別の諸言説が、中世以来のケガレ概念をおそろしいほどになぞっているということもあるのでしょう。

ですが、それとは別に、私がこの本に惹かれる理由の中には、10年ほど関わってきたマイノリティ・スタディ、特にエスニック・マイノリティ研究の言説が、差別という現象をかなり表層的に扱っているということへの違和感もあるような気がしています。

少数者が差別されることは普遍的に見られる現象ですが、阿部謹也や網野善彦らの研究は、差別という現象の中にコスモロジーのシステムを見いだし、賤視という概念を与えました。中世、被差別民であった人々のかなりの部分が、人間の世界ではなくそれを取り巻く大宇宙に属する存在であると見なされ、それが故に畏れられていたというのです。これは20世紀に異星人やUFOが繰り返し「目撃」され、それらへの恐怖が語られたことと通底する現象です。今また一部の人々が核分裂にコスモロジー的な恐怖感を持ち、パニックに陥っていることは周知の通りです。

私は反原発カルトに極めて批判的です。とはいえ彼らがパニックに陥る事情はわからないでもないですし、我々の社会の一部として許容せざるを得ないとも考えています。何故ならば、コスモロジー的な恐怖感にドライブされて誰かを賤視し、苛烈な排除をしてしまう可能性は、我々全ての内面に宿っているからです。

差別への衝動と無縁な人間は、おそらく存在しません。少数者の差別、賤視、排除は可能性として常に我々の中にあります。東京から遠く離れた場所で誰かが誰かを差別し抑圧し収奪している、困った話だ、では済まされません。そうした差別への衝動は、いま、ここ、にも常に存在しています(多数派の中にも、少数派の中にも、です)。全く他人事ではないのです。マイノリティについて考えるのであれば、自分自身の内面に常に存在している、異人への宇宙論的な恐怖を知り、その動作システムを理解し、その存在を受け入れ、それとどうつき合っていくかを考えなければいけません。それはどこかのナントカ族のトリビアルな歴史や文化や現状を知識として知るよりも、遙かに大事なことではないでしょうか。