新井孝重『黒田悪党たちの中世史』を読んで、日本語で研究成果を発表することの意味を考えた


黒田というのは伊賀国にあった東大寺の荘園で、今でいう三重県名張市。著者はゴリゴリの日本中世史の研究者です。

名張市って全然イメージ無い人多いでしょうが(私も無い)、地理的に言うと奈良の桜井市(平城京のあった辺り)から宇陀川をずーっと長谷寺や室生寺の方に遡っていって、分水嶺を越えて三重県側に降りたそこが名張。

奈良から伊勢神宮に行く時に必ず通る場所。

グーグルマップさんによると徒歩で東大寺まで道のり36km、8時間ちょっとだそうです。案外近いわね。

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この黒田荘は東大寺に行政文書が沢山残っているので、中世史研究では非常に有名なフィールドだそうですが、この本はまさにその東大寺文書をもとにして、いかにして古代の律令制から中世の荘園に移行し、室町時代を通して地域の武士と農民による自治が成立していたのかを、めっちゃ細かい文献史学の手法で詳述したものでした。

簡単にまとめれば、中世の荘園制というのはヴァーチャルな荘園の持ち主とリアル荘園がある場所の人々という、二つの空間の繋がりによって成り立っており、黒田荘の場合はそのヴァーチャル所有者が東大寺という巨大寺院で寺僧による合議制の組織だったので、その合議制のシステムが荘園制度によって必然的にリアル荘園にも模倣されたと。

こうしてリアル荘園に移入された合議制の組織と、古代の自力救済文化の中から現れた、自らの実力で自らの権利を確保しようとする人々(悪党・この場合、反社会的勢力という含意は薄い)が結びつき、伊賀国は室町時代を通して、悪党による自治が成り立っていた、ということです。

大変に読み応えのある研究書でございました。

さて、著者の新井さんはもともとは私立中学・高校の教員をしながら中世史研究を続けて、後に大学の専任教員になった人です。

私の父方の伯父(父の姉の夫)も同じように、小学校の社会科教員をしながら三河の地域史研究を続けていた人で、自治体が出版する地域史の編纂作業も数多く手がけています。知立市誌とか刈谷市誌とか。この中にも彼の名前は沢山出てきます。

日本の学術研究というのは、こういう、大学の外でガチの趣味としてコツコツと積み上げている人というのが案外バカにできなかった。特に地域史研究なんかこういう人たち抜きでは全くもって有り得ないのです。

で、そういう、草の根のガチ研究者が生涯に1冊か2冊、自分の研究の総まとめとしての本を出す。

そういう本を私は何冊も読んだことがあります。それは研究レベルや叙述のレベルにムラが無いとは言えません。特に地域史の人はわかっていることを全て書き記そうとするから(それはそれでメリットはあるわけだし)決して読みやすい本でもない。

この本も然り。

とはいえ、こういうスタイルの研究者たちの分厚い蓄積があった方が良いのか、無い方が良いのかと問えば、そりゃあ答えはすぐに出ます。

あった方が良いに決まってる。

自然科学系の研究者で、英語で国際誌に数ページの論文を毎年何本も出すのが普通という分野の人から見ると、日本語で、しかも学会誌よりは単行本での研究成果出版がメインの分野は、それだけでも「あんなの学問じゃない」に見えることがあるらしいのですが(社会学もそう見られているらしい)、それは逆に視野が狭いんです。私に言わせれば。

地域史研究や民俗学研究、日本の社会を対象とした社会学は、日本人が自分たちについて調べて考えて書くという営みでもあって、これは地域社会や民族や国家としての自己同一性のありようを絶えず自ら検証し続けるという、それ抜きには社会や民族や国家が成り立たないとても重要な機能がある。

少なくとも、そういうスタンスで研究人生を生きている人たちは、英語で国際誌でインパクトファクターでグラント獲得で俺sugeeeeって人たちの生き方は全く否定していないように思えます。逆は? ちょくちょく煽りに来ますね。何故なのかなあ? 君たちももっと心に余裕を持ちましょうね。一緒に祖先たちの駆けた伊賀の山野に思いを馳せようではないか。なあ、友よ。

そんなようなことを考えた読書体験でした。

まだ黒田悪党についてイメージがわかない? じゃあベタなポピュラー文化でダメ押し。

「黒田悪党の一人、百地丹波という地侍が、伊賀流忍者の大ボスの百地三太夫のモデル」
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