アンドロメダの自己同一性問題と山南艦長との道行きについて

ヤマト2202の6章におけるアンドロメダについて、土星沖会戦の旗艦だった艦と火星沖会戦でガトランティスの重量制御装置を破壊した艦が同じかどうかで議論になっている。

船体が同じなのかどうか、山南艦長が語りかけたのは船体に対してだったのかという問題だ。
小林誠副監督は違う船体だったという立場。
公式ウェブサイトはこれを書いている時点では同じ船体を時間断層で改装したという記述になっている(旧作からリアルタイムで色々なアニメや漫画を見てきた46歳は、長期間に渡り沢山の作品が作られるタイトルにおいて設定が完全にフィックスされることは無いということをよーく知っている。なんせファイブスター物語を1回目からリアルタイムで読んでいたんだ)。

時間断層工場にて緊急修理並びに大規模な改装を施したアンドロメダ一番艦。土星沖海戦でガトランティスの反物質ミサイル攻撃を受け、艦首の波動砲口および波動エンジンを損傷。ワープ不可能となり、2隻のドレッドノート級戦艦を重力アンカーにより両舷に接続、トランスワープを行なって地球へ帰還した。
全損した艦首の連装波動砲は、ドレッドノート級と同じく波動砲口内にスプリッターを増設した四連装拡散波動砲へと強化。もはや有人操艦も難しい自律操艦能力を持つ高機動戦闘システムの試作型として生まれ変わったが、兵器としての無人運用の危険性を回避すべく、山南艦長の意見を反映して1名の乗員が規定された。

自分は、戦闘妖精雪風のように旗艦アンドロメダのAI(ヤマトのアナライザーAU09や銀河のAU13のような)が乗り換えていれば、違う船体でも同じアンドロメダという意識で山南艦長が語りかけたのではないかと解釈している。戦闘用やロジスティクス用のAI、RPAなどは地球艦隊全体のデータを学習させて共用しているとしても、山南艦長とのコミュニケーションはわざわざ全軍で共有する必要が無いだろうから、座乗艦ローカルで学習させているのではないか? とすれば、アンドロメダの自己同一性を担保するのは搭載AIと考えることも出来るだろう。
ZZZ-0001アンドロメダ改の船体がAAA-1アンドロメダと同じものという立場を取るブログ記事における論拠は劇中の「修理」というセリフと、山南艦長のZZZ-0001へのセリフの二つ。
うろ覚えだが工場で修理というセリフは土星からドレッドノート2隻に連れられてAAA-1が火星まで戻った時のはず。
であれば、時間断層工場に入った時点でAAA-1の修理よりも指揮用AIの別船体への載せ替えという判断になったという解釈は出来る。
結局のところ問題になるのは、山南艦長はアンドロメダの同一性を何に対して感じていたのかという、この一点だ。船体なのか自分が一緒に戦ってきたAIプログラムだったのか。
銀河の描写を見ると、艦ごとに搭載されたAI(AU13など)は地球にある上位のAIから半独立で動いているようなので、やはりAIごとの個性というものは艦単位で生まれるのだろう。ましてアンドロメダは総旗艦である。
ま、最終的には見る人それぞれが自分なりに解釈すれば良いのだが、私はあれだけボロボロになったアンドロメダをわざわざ船体にとんでもない負荷がかかる高機動型にするだろうかということと、有人艦を無人艦に改装する手間を考えると、山南艦長がアンドロメダのAIを連れて乗り換えた説のがしっくりくるかな。
もちろん、モノそのものを擬人化(艦これ的な意味ではなく)し、それに愛着を感じる心情があるのはその通りなのだが、シンギュラリティ以後の世界であるヤマトにおいて、人がハードウェアの構成要素のうちモノと搭載AIどちらに人を感じるのかと考えると、多分AIだろう。
2012卒の卒論ゼミの指導学生で「へたりあ」を例にモノの擬人化の歴史社会学を卒論にした学生がいました、そういえば。
キャプテンハーロックのアルカディア号が作品によってデザインが全然違うのに違和感が無いのは、トチローという搭載AIは不変であることが理由なのではないかと思う。つまりアルカディア号の自己同一性とはトチローが搭載されているということで担保されるのだ。同じようなことなのではないか、というのが私の解釈。
また、シンギュラリティ後のAIに心や感情があると仮定すると、アンドロメダ改に乗り換えてヤマト救出に向かう山南艦長の気持ちをアンドロメダAIは理解していたとも考えられるし、そうするとあの一連のシーンの見え方が変わってくる。むしろその解釈のが泣ける。
ZZZ-0001が轟沈した時にアンドロメダのAIでヤマトからのアンカー分離まで山南艦長に付き合ったバージョンが別の場所にダウンリンクされていなければ、あそこが山南艦長とアンドロメダのお別れになるし、もしも山南艦長が最終バージョンをダウンリンクで逃がすためにZZZ-0001の艦橋でギリギリまで頑張っていたとすれば、それもまた一つの物語だ。薄い本がそれで沢山作れるだろう。
自分は以前に映画の字幕監修をやった時に、セーラームーンの脚本を何本か書いたという人に、主人公のこのセリフはこう訳すべきだと意見されたことがある。それは映画の解釈可能性をかなり狭める訳し方で、検討はしたけれども結局はもっと幅広い解釈の余地がある字幕を選んだ。その後、私を非難するブログを開設して彼女は何年も頑張っていた。制作会社(東北新社)の担当のKさんから心配されたほどだ。
余談だがヤマト2199の担当の人は、Kさんの斜め向かいの席だったとのこと。なおKさんは今は独立されて、バナナフィッシュとか手がけているらしい。
ファンがフィクション作品に深く思い入れするのは、作り手にとってはとても嬉しいし、やり甲斐を感じる要因だ。だがその思いが深すぎるあまりに、自分の思うような解釈を阻害するような要素を持ち込む作り手への個人攻撃を展開するというのは、あまり建設的な楽しみ方ではない。誰も得しない。
結局AAA-1はZZZ-0001なのかどうか。はっきりしないからこうして色々な作品の読みが可能となる。そういう視点から考えると、小林副監督の発言は、私としては、色々な読みの可能性を開いたという意味で、プラスに評価したい。
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こちらは大気圏に突入して搭載AIごと燃え尽きた宇宙船が最後にダウンリンクした画像を使ったトートバッグです。JAXAと版権管理会社のアマナイメージズさんにちゃんとお金払って画像使用権買ってます。