「ドラえもん のび太の新恐竜」はまるでポケモン映画だった

昨日は息子と「ドラえもん のび太の新恐竜」を見てきました。

映画館で見るのは、自分が子供時代に見た「のび太の恐竜」などを別にすると「新・のび太の日本誕生」から5作品連続です。チケットだけじゃなくて毎回、グッズも必ず買ってるので、まあロイヤルカスタマーですよね。

ですが、「新恐竜」は正直、最近のドラえもん映画の中では圧倒的に不出来だと思いました。理由は以下の通り。

1) 新恐竜として登場した2匹、見た目と身体能力は恐竜だけれど、中身は完全に人間です(あるいはポケモン)。中盤以降はのび太やしずかの話す日本語を完全に理解していますし、現代人と同じような思考を持っています。なら恐竜ものにする意味が無い。ドラえもんを出さずにサトシと仲間たちにしたら「劇場版ポケットモンスター キューとミュー」で成り立つというか、むしろポケモン映画にすべきだったんじゃないかと。

2) 中盤、ジャイアンとスネ夫が行方不明なのに誰も探そうとしない。ストーリーラインを「のび太と恐竜の交流」「より大きなカタストロフ回避」の2本並行で設定したのは良いけど、二つが完全に分裂したままの中盤になった。関連して、タイムパトロール職員がいきなり警告も無しに子供を撃って檻に入れるなんて、まるでアメリカや日本の不良警官じゃないですか。服務規程違反にならないの?

3) 最後ののび太のクリフハンガーが間延びしすぎです。のび太の握力があんなに持つなら、逆上がりくらい出来てるでしょ。

4) 超巨大翼竜がのび太を吊るして飛んでいるだけになっている。あれなら崖からのび太を落とした方がまだ説得力があります。しかも超巨大翼竜、中盤から終盤まで何でのび太たちの後を追っていたのか何の説明も無いまま、クリフハンガーが終わったらスモールライトで小さくされて退場。なにそれ。何だったんですかあれ。

5) 最後のカタストロフでのび太と恐竜の心の交流を長々と入れすぎで間延びに間延びを重ねた結果、時間進行が明らかに不自然になり、キムタクにそれを取り繕う台詞を何度も言わせている。

6) ピー助、何で最後のカタストロフを海中で生き延びた?

7) 今どきの小学校なら逆上がり補助板は必ずあるはず。のび太がこれを使わないのは不自然。

8) 今どきの小学校なら「遅刻したら廊下に立たせる」は体罰で速攻クレーム入ります。

9) 緑色のほうの恐竜、根性練で飛べるようになったら、今度はいきなり仮面ライダーオーズのタジャドルコンボみたいな凄まじい飛翔能力で地面スレスレを飛び回ってたけど、なんか超能力でも発動した? あんな飛び方出来るわけないじゃないですか。藤子・F・不二雄先生に怒られないですかね。

川村元気、「宝島」は良かったのに、今回はどうしちゃったのかなあ。

そうそう、帰りに息子にねだられたんで「メイドインアビス」を大人買いして与えました。「メイドインアビス」の方は私は苦手な作風なんで怖くて触れないけど、息子がやたら欲しがるので。まあ好きなもんは好きってことで。名作とは言われているしね。

2020/10/2追記

同じような疑問をお持ちの方が他にもいらしたようですが

ドラえもん のび太の新恐竜がやっぱり度し難い理由。

思うに藤子・F・不二雄先生が描かれた本来の野比のび太の本質は、今で言うところのギーク系ハッカーなんですよ。

テック系のガジェットをあれこれいじくり回して、もっと楽に課題を解決する方法を常に考えているインドアタイプのハッカー少年。

そのハッカーマインドは毎回毎回、しょうもない結末を迎えるわけですが、ごく稀にソーシャルグッドな成果を手にする。それが「ドラえもん」映画だと思うのです。

その観点からも、少年ジャンプ的な友情努力勝利でまとめた「新恐竜」は、「それ、集英社の作風だからさあ」って思ってしまったのでした。