小説の文体についての個人的な覚書。

自分の文体が褒められる時「地形や街の風景が完璧に想像出来る。一番好きな文体」

ダメ出しされる時「学術書みたいな文体」

21世紀に日本人作家が書いた小説をほとんど読んだことが無いのは事実である。たぶん真面目に読んだのは200冊くらい。あとは流し読み。だから今風の日本人作家の小説の文体が、実はよくわからない。

今、ふと見たら青柳碧人という人の『浜村渚の計算ノート』という本がリビングにあったので開いてみている(妻が買い集めている)。これはシリーズ化されていて3年間で10刷だから、大変に売れている小説だ。直ちに気づくのは、台詞が説明的であるということ。実際に交わされるような会話より情報量を増やし、誇張表現も多い。

アニメやドラマや映画の台詞も同じだが、現実に我々が交わす会話の3倍くらいクドく味付けするのが、商売ものなら普通だ。こんな喋り方をリアルでする奴はいねーよ、というくらいに味付けをクドくして、やっと「普通」になる。

また、登場人物も現実にはこんな奴いねーよ、というくらいに特徴を強調された造形になっているし、発生する事件も極端なものだ。だが、これが現代のエンタメ文芸の「普通」なのも事実である。

極端さの無い常識的で賢明な人たちが、地味な事件に関わって必要最低限の会話を交わしている小説ならば、「学術書みたい」となるのは当たり前だ。

だが、自分が書きたい・読みたいのは、誇張が(チート方向の誇張も普通さの誇張も愚かさの誇張も)無い、フィクション的にキャラが立っていない人が、奇跡も強運も運命も伝説も超能力も魔法も超科学もコンツェルンも使わずにどこまでのことを成し遂げられるかというお話だ。

誇張はそのコンセプトの根幹を壊してしまう。

やろうと思えば出来る。実は自分は文体模写は上手い。台詞だってキャラだって設定だって事件だって、クドい方向に持っていくのは簡単だ。

だが、それはチャレンジとしてはつまらない。どうせやるなら、引いて引いて引いて、徹底的に薄味にしたものを書きたい。

これに関連する話だが、昨日貰ってきた出身大学院の紀要「境界を越えて」19号の小野正嗣と福島亮大の対談「浦から世界文学へ」が面白い。

小野が「世界のいろいろな地域で、恐らく自分の書きたい本能や欲求に忠実に、それぞれの言語に負荷をかけるといったやり方で、面白い作品がさらに書かれていく」と予想している。

一方、福嶋はアメリカで創作のシステム化が進んでいて「クリエイティブ・ライティングを出た人が作家になる。そうすると、ある程度まとまりがよくて、きっちりした作品が書かれるのでしょうが、同時にある種のオブセッションは消えていく」と予想する。

小野正嗣「わりとみんな優等生的にきれいに書くけど、そこまで心に残らない」「アメリカのわりと尖ったセンスをもつ書店は、外国文学を読みたがるんですよね。ジャンルを問わず、アメリカにおける翻訳書の割合は、全体の出版点数のおおよそ3%ぐらいらしいです。翻訳された文学書となると、もっとはるかに少なくなります。にもかかわらず、そういった書店や書店員は、海外文学を推している。アメリカの現代文学の多くがクリエイティブ・ライティング的なシステムから生まれているのだとしたら、そういうシステムによって生まれるものとは違う出自を持つ文学に対する健全な興味もちゃんとあるということですよね」

小野「そうやって言語に負荷をかけた小説が面白いと思う人もいれば、言語に負荷をかけた小説は読めないという人もいるでしょう。むしろ読めない人のほうが増えてきているかもしれない。そうすると、言語に負荷をかけるような書き方の人たちは珍獣として何とか生息していくしかない」

福嶋「それに、小野さんの世代以降は、そもそも外国文学の影響を強く受けた作家自体が少ないのです」「基本的に何のパラダイムもないまま無風状態で漂っているのが、現在の日本文学の状況だと思いますね」

この辺がとても気になった。

自分は今、日本で大量にシステマチックに書かれているラノベやキャラ文芸や大衆小説を読むと、オタショップがテナントに入ったイオンモールにいるような気分になる。また、それらへのアンチテーゼとして書かれているものを読むと、ゴールデン街にいるような気分になる。

色々あって色々選べるようで、実はほとんど選べない。同じようなバックグラウンドを持つ人たちが同じシステムの中でマーケティングして書いて売っているからだ。書いている人も出版している人も同質性が高すぎて、本質的な部分で違和感や異物感があるものが店頭に並ばない。

だから、サンプルとして読みはするけど何も残らない。

あの手のものからは、世界文学の中で自作をどう位置づけるかという意識を感じない。今、日本で新人賞と呼ばれるもののジャッジをしている編集者や作家の中で、自分が選ぼうとしているものが世界文学史の中にどうハマるのかをスラッと論じられる人が、果たしてどれだけいるものか。彼・彼女らの発言を読んでいると、ただのマーケターなんではないかと思えてならない。

さて。自分の書いているものが(同時代の日本人作家の影響を全く受けていない点で)翻訳小説っぽいとはよく言われるが、確かに自分のルーツのかなりの部分は1960-80年くらいの英米SF/ファンタジーで、それ以降のものはほとんど摂取していない。

彼・彼女らと、ルーツの一つとして20世紀後半の英米ファンタジーは共有しているけれど、今の日本の書き手たちはそこから4段階くらいかけて日本にローカライズされたものがベースになっている。

一方、自分はローカライズされていないものをベースにしている。猪熊葉子訳のサトクリフとか、井辻朱美訳のスプリンガーとか。ギャビン・ライアル、アリステア・マクリーン、ジャック・ヒギンズ。ハインライン、クラーク。

だから、自分の書いているものは、ある種のポストコロニアル小説と言えるのかもしれない。

幸か不幸か、同時代の日本人作家の小説はいくら読んでもほとんど自分の中に何も残らずに流れ去るばかりなので(イオンモールだから)、これからも「外国の架空のマイナー作家の小説の翻訳」みたいなものを書いていくことになりそうだ。