パトリシア・A・マキリップ『妖女サイベルの呼び声』書評

世界幻想文学大賞の第1回受賞作を読了しました。

原題は”The Forgotten Beasts of Eld”で、1974年にアメリカで出版されています。

訳者の佐藤高子さんは1934年生まれ、神戸女学院大学卒、2014年に亡くなられていますが、バロウズやボウム、ル・グィンを数多く訳している、20世紀アメリカのファンタジー/ スリップストリーム文学翻訳に大きな業績のあった方。訳文のクオリティも非常に高いです。原文が何となく見えるようで見えない、ギリギリのところで見事な日本語の文章になっている。文芸翻訳家の端くれとしてこの技には感嘆を憶えました。学ぶところ大いにあり。

さて、この小説は日本では1979年に翻訳書が出て、私の手元にあるのは2009年の14刷。ロングセラーですね。ほとんどが絶版になったハヤカワ文庫FTレーベルでは数少ない現行商品です。内容はまさにハイ・ファンタジーのお手本。これを読んでやっと、ファンタジーの基本構造が腑に落ちたような気がします。

あらすじはこうです。

舞台は西洋中世風の架空世界。エルドウォルド王国の首都モンドールの背後に聳えるエルド山には、16歳の孤児の魔女、サイベル( Sybel )が住んでいました。サイベルの曽祖父は魔術師ヒールド。ヒールドの息子ミクはモンドールで生まれましたが、ある時、町を出てエルド山に入り、そこに城館を立てて魔力を持つ獣たちを集めました。ミクの息子オガムも同じようにエルド山の城館に住み、一人娘サイベルを育てました。

オガムが死んで間もなく、一人きりになったサイベルのところに赤子が届けられます。サイベルの甥に当たるというその子は、エルドウォルド王妃の生んだ子だと言います。サイベルはその子、タムローンを引き取って育てることにします。

そして12年後、強大な魔力を持つサイベルと、エルドウォルド王位継承権筆頭者のタムローンを巡って王と貴族たちの間で政争が勃発。サイベルは中立を保とうとしますが、手段を選ばずにサイベルを支配下に置こうとしたエルドウォルド王の行動により、ついに内乱が始まる・・・・。

このプロットは、実は魔法を一切出さなくても書くことが出来ます。サイベルの力を、経済力とか権威とか美貌に置き換えても話は問題無く成り立ちますからね。

では何故、マキリップはこのお話をファンタジーとして書いたのか。

何故、サイベルは「強力な念視力と超ロングレンジの(エルドウォルドの国中のあらゆる人間に届く)精神感応力・精神支配力」を持ち、魔法の力を振るうコクチョウ、ライオン、イノシシ、鷹、竜、猫たちを使役出来るのか。

繰り返しますが、これらの力でなくても小説は成り立つんですよ。同じ筋で。私がファンタジーノベル大賞に出した作品は、魔法は一切出てきません。『竜の居ない国』の世界での強大な力とは、法律上の正当性(legitimacy)であったり、課税権であったり、資本力であったり、血統に付随する各種特権です(言い換えれば、それらの力を「魔法」に置き換えて書くことも出来た、ということです)。

私がこの小説を読んでわかったのは、ファンタジーとして「魔法」や「魔獣」を出すことのもっとも基本的な意味は、「文字数の圧縮」と「超常現象でなくては表現出来ない詩的描写」である、ということ。

ここで少しだけ社会学の考え方を援用しますが、権力というのは社会学では、他人に何らかの行動を強制することが出来る力、とされます。

法律も魔法もこの点では同じです。それが差し向けられた誰かの行動の選択肢を狭める力ですから。

ただ、法律や経済を媒介とした場合、何故この登場人物はこのような行動を強いられるのかを説明する際に、文化的背景や思想まで含めて丁寧に書く必要が出てきます。一方、これは魔法の力だからとしてしまえば、それで済みます。文字数が大幅に圧縮出来る。これで浮いた文字数を使って、魔法ならではの情景を描きこむことが出来る。本作のクライマックスの魔獣たちの活躍シーンがまさにそれ。同じようなクライマックスを法律や経済や文化を使ったトリックとして書くことも出来ますが、そこを魔法でやるからこそ、この美麗で幻想的なクライマックスの描写が可能になる。

また、最終的には前述の「文字数の圧縮」というところに含めてしまっても良いかと思いますが、魔法を持ち出すことで、常識的には弱者であることが多い属性の人物に強い権力を付与することが出来る、ということも指摘出来るでしょう。

例えばサイベルは「16歳の孤児の少女」として物語に登場します。現代日本では極めて弱い立場の属性です。法律や福祉で女性や子供や孤児の権利が相当程度、保護されているこの日本においても、です。ですから、現代日本を舞台に魔法が出てこない小説を書くとしたら、「16歳の孤児の少女」に一国の主権者をも越える権力を持たせる設定を考えて、それを読者が納得出来るように書くのは非常に難しい、文字数も食います。

しかし

「わたし、サイベル。16歳。お母さんは5年前に死んだ。お父さんも先週死んだ。兄弟も姉妹もいない。親戚はいるけど、向こうは私の存在を知らないし、知りたくも無いんじゃないかな。生まれた時からずっと山の中で暮らしてきたから、お父さんとお母さん以外の人間としゃべったこともない。でも、特に困っていない。私はエルドウォルドの国の誰の心にも直接話しかけて、私の思うように動かせる力があるから、食べ物も服も薪も、必要になったら誰かに頼んで持ってきてもらえるし、竜のジャイルドと鷹のターがいつも守ってくれてるから、私をどうにか出来る人はいない。ターはこれまでにヤクザや半グレを7人も殺してる。ジャイルドは長年溜め込んだ金や宝石をいっぱい持ってるから、麓のコンビニの人に何か持ってきてもらった時には、ちゃんと代金も渡してる」

こう書いたら、もうそれで大丈夫。説明が済んでしまう。女子中学生とかNEETの青年を主人公にするのでも、これは魔法ですからって言えばそれだけで凄い力を持っていることの説明が出来てしまう。

もちろん、「魔法ですから」で強大な権力を持っていることの理由説明を済ませるというチート技を使う以上は、その(本来ならば弱者であるはずの)キャラがそれだけの力を持つことが、物語を展開させ、駆動させる上でどんな必然性があるのかは、厳しく問われるべきだと思いますけどね。

あと、もう一つ大事なこともわかりました。「魔法は結局、人を救わない」という一線を守るかどうかが、残るファンタジーか残らないファンタジーかを分ける。

本作でも、サイベルは彼女の持つ強大な魔力によって不幸になり、甥と夫の愛情によって幸福を手に入れます。サイベルはその気になれば国中のあらゆる人間の記憶を自由に操ることが出来る、凄まじいチート能力を持っているのですが、結局その力は作中では1度しか使いませんし、その力の発動はサイベルに不幸をもたらします。この手の力を安易に物語にぶっこんで、安直なハッピーエンドを書いてしまったら、それはもしかしたら売れるかもしれないけど、残らない。

さて、次は何を読もうかな。タニス・リー『死の王』にするか?