大澤真幸『社会学史』を最後まで読んだけど印象は変わらなかった

表題の通りです。途中まで読んだ時点で書いた感想の記事が思いがけずバズりましたが、最後まで読んでもこの感想に変化は無しです。

アリかナシかという話なら断然アリ。これはこれですごく楽しい本です。社会学の歴史をこんな壮大なエンタメとして再構成出来るなんて、大澤真幸の筆力はやはり売れるだけのことはある。もちろん勉強にもなります。大澤真幸の考える社会学史はこうなんだ、という読み方をするのが正しい使い方です。学生や院生なら、信頼出来る先生に適宜アドバイスを貰いながら読むとなお良いでしょう。

定番の入門書! とは言いづらいのですが、それは随所で大澤真幸の、相当に強引な解釈が炸裂しているからです。ただし、ここは過激な解釈だよというところは、大澤真幸もちゃんとそう断ってから書いていますから、少なくとも博士号を取った人間(=大学で教える最低限の資格のある人)ならば、学生や院生に「ここはイエローゾーン、ここはレッドゾーンまで踏んでいるので注意して」と教えてあげられます。それをしなければ怠慢です。

また、卒論や修論では当然ながら、ウェーバーやルーマンやフーコーについて引用するなら原著からになりますから、その段階で原著や他の人の書いたウェーバー論なりルーマン論にも目を通すことになるので、大澤解釈だけが最後まで残るということにはなりません。そうなった時はやはり、指導教員/教官の職務怠慢です。

私はコントからフーコーまでの区間しかゼミで読んだ経験は無いのですが、それぞれの人物について、当時のゼミ室の雰囲気なども思い出しながら懐かしく読みました。コント、スペンサー、マルクス、ウェーバー、デュルケーム、ギアツ、バーガー&ルックマンは永見勇先生、フーコーやカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル系の論者は三井徹先生と大澤善信先生(関東学院に移られる前の金沢大学時代)、ボードリヤール、リオタール、ジンメル、ヴェブレンは北山晴一先生のゼミでやりましたね。大澤善信先生は3年前の2016年にルーマンの『自己言及性について』を翻訳されていますが、金大のゼミではルーマンの話は無かった。

ちなみに博士論文ではシュッツの、かなり過激な読みを提示しました。あれがシュッツの読みのスタンダードになるべきだとは全く思いませんが、そういう読み方も出来るんだへえ変なこと考える人だねえと楽しんでもらえたら良いんじゃないかと思ってます。だから『社会学史』も同じように、こういうのも全然アリでしょと思うわけです。

何にせよ、新しいことに挑戦してやり切ったというのは、私はとても高く評価します。ビジネス、特に日本のビジネス界では、そういう人は珍しいですからね。

古い会社や大きな会社では、少しでも新しいことに挑戦しようとすれば「そんなことして何かあったらどうするんだ」「責任は取れるのか」「それより今期の予算は達成出来るんだろうな」「本来業務に集中しろ」などなどネガティブコメントの雨あられ。あるいは本人にはノーコメントだけど一切新しいことには協力しないで、「あいつは変人」「以前にあそこをクビ同然で辞めた人」みたいな陰口と非協力的態度できっちり潰す。そんなおじさんおばさんがとても多い。

あれ、これって『社会学史』に対するツイッターや「はてな」のコメントそっくり?

はい、そっくりだと思います。私はね。ああ、この人たちはビジネスの世界にいれば保守的で社内政治に精通したルーチンワークおじさんになって、45歳を過ぎたところで富士通のあれとか、損ジャパのそれとかの対象になるタイプなんじゃないかなって思いました。だって佐藤俊樹による批判(あれは別格なので称賛したい)は別にして、きちんと『社会学史』読んで丁寧かつ建設的な批判を加えて、実名かそれに準ずる筆名で公開した社会学徒って居ますか? 尻馬に乗ってなんか一言言うだけの人、匿名や捨てアカウントで難癖つけてるだけの人はいっぱい見ましたけども。

とにかく作りたいものは作り、やりたい事業には挑戦して、それで市場が受け入れれば良いし、インチキ代替医療本みたいな、1冊で人の生命を毀損するような危険な本というわけでもなく、社会学部での本来の学びのプロセスを考えれば『社会学史』を学生や院生が読んだって何も問題は無いんですから、大澤真幸さんには印税いっぱい稼いで所得税いっぱい収めて下さいヨロシクと思うのでした。

というわけで皆さん、お疲れ様です。