「カメラを止めるな」がつまらなかったことに罪悪感を感じる必要はあるのか

昨年、たった2館での上映から、これは面白いと大評判となり、雪だるま式に上映館が膨れ上がって、賞も取りまくった映画「カメラを止めるな」。

テレビで放送されたので、録画して見てみました。

私の反応

開始10分経過頃:「ダルい」
11分頃:リモコンを手に取る
11分30秒:チャプタースキップで先の方を飛ばし飛ばし見る。
15分:どのチャプターもダルいので最後にみんなで組体操をやるシーンだけ見てデータ消去

(これまで私に同様の仕打ちを受けた主な映画として「アナと雪の女王」「ララランド」「ハリー・ポッターとその他大勢」「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」「ドライビング・ミス・デイジー」「バグダッド・カフェ」「アメリ」など)

改めて考えてみました。何故こうなる。

1) 本題に入るまでに長い映画が嫌い

本題に入るまで40分間の前振りは絶対に耐えられません。お金貰わないと無理なレベル。

お金払って映画館に行った人なら、サンクコスト回収のために我慢して見るでしょうけど、テレビ放送だったら、ちょっとでもダルくなればみなさんスマホ見て時間潰すでしょ。映画館向きだと思いますよ。

2) ネットバズでハードル上げすぎ

ネットで称賛の嵐が吹き荒れると、自分史上最も面白かった級の映画(「天空の城ラピュタ」とか「茄子 スーツケースの渡り鳥」とか「仮面ライダー平成ジェネレーションズForever」とか「天元突破グレンラガン 羅巖編」とか)と較べて、これはダメだとなった瞬間に失格扱いになってしまいます。なりますよね? しますよね? たぶん「ボヘミアン・ラプソディ」も、見るなら思い切りハードル下げる方向での心の準備しとかないと途中で止めるか早送りしちゃうはずだ自分。

なお「この世界の片隅に」はネットの評判通り素晴らしい作品だったので、稀に、本当にいい作品が紛れ込んでいることもあるのは知っております。

さて、とはいえ、あそこまで評判になると、今度は「この作品が面白くないだなんて言えない」「自分がおかしいんじゃないか」という気分にもなって参ります。同調圧力ですよね。

例えばビートルズの音楽なんて良いと思ったことは生涯で一度も無いけれど、会話の中でビートルズの話が出てくると、だいたい「ここにいる人はみんなビートルズを神と崇めている」という前提から入ってくるので、イコノクラスムするの申し訳ないなあって思っちゃう。

そういうときは私は急いで話を遮って「あー、私ビートルズ嫌いなんです。特にジョン・レノンが死ぬほど嫌いです。」って笑顔でお伝えして、話題を変えてもらいますけどもね。嫌いなんだよ。こっちがビートルズ好きって前提で入るんじゃねえよ。

(似たようなポジションの存在として宮藤官九郎と宇多田ヒカルとPerfumeがあります。どれも「良いところもあるけど、言うほど神格化するようなもんか?」と思います。)

昔はそれでも、みんなが崇めるジョン・レノンの顔を踏みつけることに罪悪感を感じたものでしたが、いつの頃からか、別の考え方をするようになりました。

世の中には一生かかっても聴ききれないくらい音楽があり、一生かかっても見きれないくらい映画があるんだから、合わないものは合わない、嫌いなものは嫌いで、自分が良いと思ったものを選んでいかなければならない。

というわけで、「カメラを止めるな」はつまらなかった。最初の40分間我慢して見る義理はない。40分間我慢出来なかったことを憐れんでもらう必要もない。むしろ最後まで見てやっぱりつまらなかったときのリスクを考えると、15分で見切った自分を褒めたい。

それで良いのだ。