クイア表象の件
「水星の魔女 クィア」で検索すると呪詛と作品への罵倒しか出てこないのに、「Gwitch queer」で検索すると大半が作品への賞賛なんですよ。日本語ツイッターだと「家父長制、ホモソ、ミソジニー、性的搾取」の話ばっかなんですよね あれは日本独特なのかもと思い始める私です。とりあえずこの4種類の物差しを当ててみる、みたいな。
日本語
かなりの極論。シスヘテロのモノアモリー恋愛というのは
シス→シスジェンダーの略。生まれた時から性自認がずっと一致していて、それでとくに困っていないひとのこと。
ヘテロ→ヘテロセクシャルの略。異性愛者のこと。
モノアモリー恋愛→一人のパートナーと恋愛をする人のこと。
つまり現代日本の一般的な恋愛、作中で言えばラウダとペトラは「システへロのモノアモリー恋愛」。ナディムとエルノラもですね。シャディクのミオリネに対する行動やグエルのスレッタへの片思いも全部これ。そういうのを描いた時点でクィアへの迫害という主張です。
何故か高島鈴みたいな攻撃的フェミニズムがフェミニズムと同一視されているのが日本の一部界隈。あんま良いことじゃないと思いますが日本には言論の自由も思想の自由もあるので良いことかもしれない。
日本語話者と英語話者のバックグラウンドの違いで水星の魔女の受容がどれくらい変わるんでしょうか? 英語話者でホモフォビアやヘテロノーマティヴィティを激しく非難しつつスレッタとミオリネの同性婚エンドを絶賛する人もいます。タイ人SF作家のシードゥアンケーオとか。
私が日本社会で特権的なポジション(主流派の大和民族の男性で重大な障害も無く名門私学出身でシステへロのモノアモリー)なのは、それはそう。でも言葉遣いは水星結晶さんの方が下品に思えます。
これは若手の研究者やライターでクィアをカミングアウトしている方々による座談会。断罪ではないが高評価でもないかんじ。
英語
上で見たように日本語空間では「水星の魔女のクィア表象は当事者から見てアウト」と言われがちなのですが、実際はどうでしょうか。
クイアのイラストレーターというこの女性の連ツイ面白かったです。障害の表象という視点で「水星の魔女」を細かく分析しているのですが、「水星の魔女」では障害者たちが惨めな存在として描かれていないと。右手が無くて下半身が動かないプロスペラ、肉体を失ったエリクト、ニューロディバージェントとして登場して最後は身障者にもなったスレッタ、3人ともエピローグが一番幸せそうに描かれていますよねと。
こちらもクイアのガンダムファンとして「水星の魔女」は我々にとって非常に大きな意味を持つという声
私は日本語と英語しか読めないのでその二つの言語空間しか見れませんが、クイアの人たちは英語空間だと水星の魔女は非常に評価が高いような。論調としてはクイアをテーマとしたフィクションの多くはクイアの苦しみを描くのに対して、水星の魔女はガンダムのような超メジャーIPのしかも主力商品なのに非白人のクイアの女性が同性婚のハピエンだった点で極めて重要な作品であると。
オルフェンズから水星の魔女はメインストリーム作品のクィア表象のあり方としては正しい方向への、非常に大きな進化であると。この方↑はプロフによればレズビアン。
キスシーンや「愛してる」発言がないとレズビアンカップルとして認めないなんてのはおかしいという声も。
打倒家父長制
英語でgwitch patriarchyで検索してもほとんど何も出ないんですが、日本語だと出るわ出るわ。みんな上野千鶴子の無責任な煽動に囚われ過ぎてるんじゃないですか?
日本語
英語
「水星の魔女」の世界はおっさんたちの家父長制が強烈で女性は発言権無いですねという、これはS2開始前のコメントっすね。これくらいしか出てこないです英語だと。
この辺はシーズン1終盤のコメント。家父長制と戦うスレッタ&ミオリネがんばれ的な。
これはもしかしての仮説なんですけど、日本語空間の場合はもともとアニメやゲームの女性表象を巡ってツイフェミの執拗な攻撃とそれに対する強烈な反発、特に保守系のアニメファンがツイフェミとレスバをして、また全体としてはツイフェミを冷笑するという構造が完成しているので、「水星の魔女」がその新しい戦場として設定された時に、従来と同じようなレスバ&冷笑の空気が継承されたということではなかろうか?
前々からの私の提案として、お互い交われば落とし所のない喧嘩になるので直接関わり合いになるのは止めた方が良い両者かと。
山田某のブログに対する外国語アカウントの反応
個人的メモとして。
女性・韓国語話者・百合好き
女性・シスジェンダー・タイ人・わりと有名なSF作家。かつてはポストコロニアル/フェミニズムの毒舌批評家としても活躍した人だそうです。
名字はあえてカタカナにするならシードゥアンケーオになる、と藤田渡くんが教えてくれました。
ノンバイナリー、ニューロディバージェント、レズビアン
女性・ニューロディバージェント・バイセクシャル
詳細不明。日本語空間のスレミオ叩きをホモフォビアだと怒っている。
トランスジェンダー、レズビアン
トランスジェンダー、レズビアン
ついでに戦争表象の件
これも古参日本語ファンは物足りないという声が根強いのですが
いや、ファーストガンダムの方こそ本物の打ち切りエンドだったんですが。
ちなみに水星の位置づけや意味合いは公式サブテキストがあるんですけど、知らない人が意外に多い。
植民地が植民地経済から脱却する方法って現実には何十年スパンでの地道な社会改革の積み上げ以外に無い、ということはファーストガンダムの時代と違って2023年には明らかなので、こういう部分はむしろ今までのガンダムの中でも極めてリアルだと私は思いますけども。
「水星の魔女」は戦争が足りないという声は英語ついった空間だと見つけづらいですね。不満点では最後の展開が怒涛すぎたから話数足りないという声が多い気が。 最後がガンダム恒例の「大会戦でみんな死ぬ」じゃなかったのが良いという声はちょくちょく見つかります。
もちろん英語圏にも景気よく大戦争やってくれよガンダムなんだからという声も無いわけではない
もちろん「戦争ものはもういっぱいあるだろ」という反論も
主流の論調としてはせめて3シーズンやってもうちっと戦闘シーンとか戦争ネタもくださいという。これはredditでは非常に多い。
最終決戦までのエピソードを増やすのではなくてエピローグ後に当たる、ミオリネたちが世界を変革していくプロセスをもっと、という意見も
ガンダムシリーズの戦争物ならMS08小隊、キャラクター物なら水星の魔女が最高という意見
戦争よりラブアンドピースで終わった水星の魔女最高というストレートな声
大戦争エンドじゃなくて本当に良かったという意見
もちろん日本でも大戦争全員死ぬエンドじゃなかったことを評価する意見も
逆に「水星の魔女」はシーズン2が戦争ものだったからダメだ、ウテナに忠実にやれというブログもあります。ラストシーンは全裸のスレッタとミオリネがキスしながらフレームだけになったエアリアルで飛び去るようなやつが希望なのだろうか。
そして第1期終盤において、それまで息を潜めていた世界の歪みが噴出するように、このアニメは(ガンダムシリーズにとってはいつものように)戦争アニメとなる。
3ヶ月のインターバルを経て始まった第2期では、この世界が抱える格差の構造にフォーカスが当たり、地球に住むアーシアンの反乱やテロが描かれ、また一方で主人公の母プロスペラの陰謀が徐々に明らかになる。親子・兄弟間の執着と確執、アーシアンとスペーシアンの対立、企業の思惑と主人公たちの思いなどの要素が交錯し合い、戦争アニメとしてのドラマが盛り上がっていく。
『水星の魔女』第1話で引用されたアニメ、『少女革命ウテナ』は、文字通り「少女」と「革命」についてのアニメだった。とはいえ『ウテナ』において、必ずしも革命が描かれたわけではない。むしろ革命の困難さ、革命を阻むものの強大さの方が強く印象に残ったと思う。
『水星の魔女』においても、別に革命が起こってほしかったわけではない。むしろそう簡単に革命が実現してしまったら、作品世界の苦いリアリティは台無しになってしまっただろう。
ただ私が期待したのは、ただ革命への意志と言おうか、世界はこのままでいいわけではない、他に道が無いわけではない、私たちはもっと自由であってもよいはずだという願いのようなものであり、主題歌に戻ればそれこそが「祝福」であったはずだと思う。
劇場版を初めて見たのが10代のときだったんですが正直、 えっ何これ…ウテナあんまかわいくない、えっチューすんのレズ!?剣抜く時あれ言わないの??ウテナ車?ラスト全裸キッス!??えっえぇーー!?ってなりました。。
障害表象
障害表象にまつわるあれこれ。
この方は「Polyam, Trans, Latnix, Disabled, Ace, Lesbian」というプロフィール。
クイア関連のツイートを紹介した方の同性婚のパートナーの女性もスレッタの顔に残った傷についてクイアの視点で分析してます。
これはスレッタの顔の傷痕と車椅子を描いた二次創作。二人のウェディング。