スチャラカ系複製メディアの迷宮へ

 今日は2年次専門演習「写真と社会」の2回目でした。学生たちは事前の指示通り、「ドキッ」とした写真を持参しています。演習の冒頭に、今日の演習の目標を説明した後、黒板にまずは文章を隠した上で学生持参の写真をずらっと貼ってみました。

 いや、いきなり面白いラインナップでしたよ~。ニホンザルが和んでいる写真、ファッション雑誌から切り抜かれた髪型のカタログ写真、ロックバンドのCDのジャケット写真、白人中年男性の巨大な臀部が写った写真、塩湖を疾走する四輪駆動車の写真、立教大学のクリスマス絵はがき、沢尻エリカの「解禁」写真。アフリカの飢餓状態の子供の写真もあれば、マイケル・ジャクソンをシルエットで捉えた写真もあった。韓国の雑誌に載っていたというアディダスの広告写真を持ってきた留学生もおりましたね。

 まずは10分間、学生たちに集まった写真をじっくり見るように指示し、その後、一番印象的だった写真の下にその理由を付箋に書いて貼らせてみました。その上で、順に付箋の内容と、その写真を持参した者の「ドキッとした理由」を照合していきます。すると面白いことが次々に明らかになりました。

 マリで1985年に撮影されたという、飢餓状態の子供を撮った写真。付箋には「アフリカの飢餓状態をよく伝えている」というような意見がありましたが、持参した学生は「被写体となった子供の尊厳や誇りが感じられた」と書いています。同じ写真から、ある者は「アフリカの飢餓」の表象を、別の者は「人間の尊厳や誇り」を読み取っている。マイケル・ジャクソンの写真に対しては「彼の最期を連想させるような寂しい写真」「これからマイケルがどんな踊りを見せてくれるのか、わくわくさせられる写真」という正反対の感想が出てきます。植田正治風のステージドフォトにも「被写体が自然な感じに写っている」「被写体から狂気や異常さを感じる」という正反対の意見が付きました。

 ここでまず学生たちは、写真というメディアが「メッセージの媒体」としてはかなりスチャラカであるということに驚くわけです。同じ一枚の写真がいかに多様に解釈されうるか。しかもマイケルさんの写真の件で明らかなように、その写真が撮影された瞬間よりも時間的にずっと後に起こった事件を重ね合わせて解釈される、ということも実際にあるんですね。

 ところが、ショッピングカートの内側の底部に貧しい子供たちの写真をはめ込んだ写真からは、付箋を付けた者そして持参した者の全員がほぼ同じメッセージ「世の中には貧しい子供も存在していることを忘れるな」を読み出していました。これは何故なのか? 同じように田中美保(だったかな)をモデルにした「ヘアー写真」(というらしいです)でも、予備知識が無いにもかかわらず髪型に注意を惹かれた者が何人かいましたし、見ただけで「これはヘアー写真だと思いました」と見破った学生もいました。この髪型写真は、実は今日集まった写真の中でも最も技術的に高度なものだと思うのですが(ライティングなど)、これを撮影したチームは見事に「髪型をプレゼンテーションする」という目標を達成していると言えるでしょう。つまり、そうはいうものの写真は、やりようによってはそこから読み取られるメッセージの内容をかなり限定することも出来るし、その為の技術というものも存在しているのです。

 ボリビアの塩湖で撮られたという写真には「こんな風景見たことない」「すごい」「綺麗」というコメント。これもかなり解釈の方向性が限定される一枚でしたが、美の表現ということも写真の重要な側面であるという説明を加えます。

 アディダスの広告写真は、おそらく釜山のアマチュアの女性アスリートがボールを持って俯いているモノクロ写真。これについたコメントが面白く、「この特徴の無い写真を持参した人は何を思ってこれを選んだのかに興味を惹かれた」・・・・・。そう、既に写真そのものよりも、その写真の受容のされ方に興味が行っているんですね。そこで、これを持参した学生の説明を読んでみると、「著名人ではない無名のアマチュア選手を被写体に選んでいることが印象深かった」。こちらも写真そのものより、それが撮影され、コマーシャル写真として利用されるプロセスに興味を持っているんです。ここで私から、メディア研究の基礎概念としてのtextとcontextについて解説。この写真はtextよりもむしろcontextの面白さに注目が集まっているということを指摘しました。

 最期のお題になったのはRAGE AGAINST THE MACHINEというロックバンドの1枚目のアルバムのジャケット写真。このバンドのアルバムは昔一枚買ってみたことがありますが、なんかサウンドに発展性が感じられなかったのでお払い箱にした記憶があります。3曲聴いたらあと全部同じやんけとか思いましたね。
 話を戻して問題の写真なんですが、これが実は本来非常にショッキングな、僧侶が焼身自殺している光景を写したものらしいんです。らしいというのは、学生が持ってきたコピーの画質の問題で、殆ど誰にもそれが読み取れなかったから。私にも何が写っているのかわかりませんでした。そこで、写真というのは同じマスターから作られたコピーがどれも同じように見えて、実はマスターとコピーでは画質(色調やコントラストやサイズ)が変わっている(変えられている)ことが当たり前のようにあり、それらはどちらが優れているとか正しいという問題ではなく、何故画質が変換されているのか、どのように変換されているのか、その結果としてその写真の受容のあり方がどのように変化したかに注目すべきであるということを説明しました。また、ある一つの写真のテクストも、大元となるフィルムやマスターデータから、それらがカスケード利用されていく過程で画質が変換されたり文字が書き込まれたりして新しく生まれてくる2次テクスト、3次テクスト、4次テクストなど幾つもの派生テクストが存在することも教えました。

 さて、ここからが今日の議論のまとめです。

 ここまで色々と写真とその解釈を見てきただけでも、写真というメディアが「勘違い引き起こし率の高い」メディアであることは実感できたはずですが、ではそれは写真というメディアのどういった特徴から来ていると思われるのか?

 学生からは、以下のような意見が出されました。

「言語ではないから」
「前後関係がわからないから(動画ではないから)」
「後の時代まで残るものだから」
「沢山の人が同じテクストを見られるから」
「本物ではなく、複写だから」

 学生たちは必ずしも自分の感じていることを全て言語化出来たわけではありませんが、それでもかなり鋭いポイントを突いてきます。三つめの指摘をしたKさんは、同時代の人間ならば常識的に備えている知識をもとに解釈出来るはずの写真も、時代が違ってくるとその知識が鑑賞者に備わっていない為に、同時代人とは異なる解釈をしうるという、リクール以降の解釈学の根本問題を掴みかけています。五つめの指摘をしたOくんも、「目の前にある本物の現実」と「写真」の間では情報量が劇的に減少しているにもかかわらず、写真の鑑賞者はその情報量の激減を意識していないために、妄想によって情報を補完する(だから勘違いが起こりやすい)というところに気づきかけていました。

 今日はここで時間切れ。何だかどの学生もぐったりした顔をしていたので「大丈夫? 俺の話、理解できた?」と尋ねてみたところ、「話の内容はよくわかりましたが、集中して聞いていたんで・・・・・」との返事。緊張の糸が一斉に切れた光景だったようですね、あれは。

 さすがに90分では色温度とか焦点距離とか被写界深度とか感光剤/受像素子サイズの話などは出来ませんでしたが、少なくとも写真テクストが「カメラマンの目の前にある光景を忠実に写し取ったもの」でもなければ、「単一のメッセージを伝達するメディア」でもなく、それどころか鑑賞者に提示されるテクストが生成されるまでの複雑怪奇なプロセスの中で、技術次第でいかようにでも「見られ方」を誘導出来るようなダマシの余地満載のメディアであることは理解してもらえたのではないかと思います(スーザン・ソンタグの写真論が個人的に眠くてたまらないのは、その辺のダマシテクの存在を大先生が全然ご存じ無いまま議論しておられるから)。また、複製メディアであるにもかかわらず、派生テクストがカスケード状に次々に生成されていく中で、同じマスターから生まれたはずなのに全然「見え方」が違うテクストが生まれうる、そういう意味では録音メディアよりも遙かにでたらめなメディアであることも伝えられたかと。

 来週は人死にまで出してしまった「ダマシテク」写真の悲しい名作「ハゲワシと少女」を題材に、ダマシテクの功罪や倫理を議論します。