意外というかブラッサイ

 昨日の演習は、そろそろ良いだろうということで、写真史のお勉強をやりました。

 まず「自分自身の身体を写すことなく、可能な限り自分を表現した写真」を撮ってくるよう指示。やはり、身の回りのモノを通して自分を語ろうとする作品が大半だったのですが、ここで私から「じゃあ君たちがこれまで撮ってきた写真には、君たちはどれだけ存在していると思う?」と問題提起。

 ある学生は「40%」、別の学生は「90%」などなど、自分の作品の「自分度」を見積もらせます。では、ということで、歴史的巨匠たちの作品を皆で見てみることに。

 まずロバート・キャパはどうでしょうか? ノルマンディ上陸戦やスペイン内戦の写真が並びますが、やはり「自分が撮った写真よりは、『自分度』が高いと思う」「これを撮りたいという写真家の思いがよく出ている」というような声が。

 次は誰だっけ? ブラッサイだ。キャパより少し上の世代で、パリの夜を撮ったことで知られるハンガリー移民。これはキャパよりもさらに「自分度」が高いという声が。キャパは仕事感があるけれど、ブラッサイは自分の趣味で撮っているように思えるらしいです。もちろんブラッサイの写真も商品だったんですけどね。

 更に遡ってウジェーヌ・アジェ。「自分の身の回りのものを記録しておこうという視線を感じる」という声が複数出ました。実はアジェは画家の途を断念した人で、画家が使う作画資料として、出来るだけ自分自身の作家性を消した写真を撮っていた(当時の「作家性」といえばピクトリアリズムですから)と説明すると、驚きの声があがります。

 ここで一気にセバスチャン・サルガドへ。構図の完璧さや表現の圧倒的な力に学生たちは驚いています。が。次に見た「コンテンポラリー」系のギャリー・ウィノグランドやウィリアム・クラインの方が、「自分度」は高いと思うという意見が多数でした。

 そこで、ブレッソンやサルガドのような「構図完璧系」、あるいはキャパのような「死線かいくぐってます系」へのアンチテーゼとしてクラインやウィノグランドが60年代に出てきたことや、クライン的な表現が森山大道や荒木経惟を経て「自分自身の内面の表現」として一般に解釈されるようになった歴史を説明。クライン登場以前にアレブレボケ表現が「作家の心象風景」「作家の内面の表現」として読まれる習慣は希薄だったんだよと教えると、へえ~と神妙な顔をしていました。

 でも、実際そうだからね。映像表現の「読み方」もまた歴史的変遷がある。今日は出しませんでしたが、ユージン・スミスのあの有名な一枚は、行くとこに行けばカラヴァッジオに始まるバロック絵画の表現の延長線上で読まれているだろうし、キャパの出世作になった「崩れ落ちる兵士」を始めとするスペイン内戦の写真なんかは、私にはゴヤの引用としか思えないカットが何枚もある。焼き方も含めて。

 演習が始まってから2ヶ月が過ぎ、これまでは写真を撮ることそのものに慣れてもらうことを中心にしてきましたけど、そろそろ、歴史的なお勉強もやっておく時期かなと思いますね。やはり巨匠たちの名作は勉強になりますから。正典主義の弊害を心配するよりも、まずは歴史を一通り学ぶことのメリットは大きいですし、出来れば西洋絵画の様式史までおさえると、あの殆どイヤミなブレッソンの構築美が、ブレッソン一代の天才的表現というよりは、西洋絵画の構図の歴史を完璧に自分のものにした上で出てきていると言えることもわかるでしょう。

 うむ、何か全然社会学部じゃない感じになってきたぞ。ほぼ文学部だ(笑)

 余談ですが、講義がおわった後に校舎の前を歩いていたら女子学生が4人ほど集まっていて、彼女らのイチオシはなんとブラッサイでした。ふくよかな娼婦のお尻写真とか・・・・・。